加賀の離れ小島 (2) ・ 今昔物語 ( 巻26-9 )
( (1)より続く )
さて、島の主の男が、敵が攻めてくるといっていた方向を見てみると、「風が吹き起こり、海の色がただならぬ怖ろしげな様相」となっていると思っているうちに、海面が真っ青となり、光っているように見えた。その中から大きな火の玉が二つ出て来た。
「どういう事なのか」と思いながら、島の主の男が反撃に出るといっていた方角を見上げると、そちらも山の様子がただならぬ怖ろしげになっていて、草はなびき木の葉も騒いで、音高くざわめいている中から、こちらからも火の玉が二つ出て来た。
沖の方から岸近くまで寄せ来るのを見れば、十丈(30mほど)ほどもある蜈蚣(ムカデ)が泳いでくる。背は真っ青に光り、左右の横腹は赤く光っている。
一方、山の方を見れば、同じような長さで、胴回りが一抱えほどの蛇が下ってくる。
両者は、舌なめずりをして向かい合った。いずれも、怖ろしげなることこの上ない。
やがて、島の主の男が言っていたように、蛇は蜈蚣が上陸出来るほどの距離を空けて鎌首を差し上げて立つと、それを見た蜈蚣はしめたとばかりに走り上がった。互いに目を怒らせて、しばらくにらみ合っていた。
七人の釣り人は、言われた通り岩の上に登って、矢をつがえ、蛇を見守って立っていると、蜈蚣は蛇に向かって襲いかかり噛みついた。互いに、ひしひしと噛み合ううちに、共に血まみれになっていった。蜈蚣はもともと手が多く、押し掴んで食うので、常に優勢であった。
二時(フタトキ・四時間)ほども噛み合っているうちに、蛇は少し弱った様子が見え、釣り人どもの方に目配せをして、「早く射てくれ」と言っている様子なので、七人は集まって、蜈蚣の頭から始めて尾に至るまで、矢のある限り射かけ、矢の根元まで残らず射尽くした。
その後は、太刀でもって蜈蚣の手を切り落としたので、ついに倒れ伏した。
それで蛇は蜈蚣から離れ退いたので、七人は蜈蚣を滅多切りにして殺してしまった。
これを見て、蛇は弱り果てた様子で山の奥に帰って行った。
それからしばらくして、この島の主の男が、片足を引きずって、とても苦しそうな様子で、顔などが傷つき、血を流しながら出て来た。
また、食べ物などを持ってきて、釣り人どもに食べさせ、大いに喜んで感謝した。そして、蜈蚣を切り離して、山の木を伐ってきて上に乗せ、焼いてしまってその灰や骨などは遠くに捨ててしまった。
それから島の主の男は釣り人どもに、「私は、あなた方のお蔭で、この島を無事に領有することが出来ました。大変嬉しいことです。この島には、田を作る所が多くあり、畑は限りないほどあり、果物の木も数限りなくあります。それゆえ、何かにつけ暮らしやすい島なのです。あなた方もこの島にやって来て住むと良い、と思うのですが、どうでしょうか」と勧めた。
釣り人どもは、「大変嬉しいことですが、妻子はどうすれば良いのでしょうか」と尋ねると、島の主の男は、「その人たちを迎えに行ってから来ればよいでしょう」と言う。「だが、どうすれば此処に連れてくることが出来ますか」と釣り人が尋ねると、島の主の男は、「向こうへ渡る時は、こちらから風を吹かせて送りましょう。向こうからこちらに来る時は、加賀の国に鎮座される熊田の宮と申す社は、私の分かれです。こちらに来ようと思った時は、その宮をお祭り申し上げれば、容易くこちらへ来ることが出来ます」などと詳しく教え、途中の食糧などを船に積みこんで船出させると、島の方からにわかに風が吹き始め、たちまちのうちに加賀国に走り渡った。
七人の者たちは、それぞれ本の家に帰り、彼の島に行こうという者を誘って引き連れ、密かに出かけようと船七艘を準備し、作物の種などを十分に用意し、まず熊田の宮に詣で、事の次第を申し上げて、船に乗り沖に漕ぎ出すと、またにわかに風が吹き出し、七艘とも島に渡り着くことが出来た。
その後、七人の者どもは、その島において田畠を耕し、住まいを広げ、子孫が数多く増えて、今も住んでいるという。
その島の名を猫の島というそうである。その島の人は、年に一度加賀の国に渡り、熊田の宮の祭りをするというので、この国の人がそのことを知って様子を覗き見しようとするそうだが、どうしても見つけることが出来なかったという。島の者は、思いもかけぬ夜中などに渡ってきて、祭り事をして帰ってしまうので、その跡を見て、「いつものように祭りをしたのだ」と気付くのだという。その祭りは毎年行われ、今も絶えていないという。
その島は、能登国の某(意識的な欠字)郡の大宮という所からよく見えるそうで、曇った日に眺めると、遥か離れた所に、西側が高く青み渡って見えるということである。
今を去る、某々年(意識的な欠字)の頃、能登の国に某(意識的な欠字)常光という船頭がいた。その船頭は風に吹き放たれて彼の島に漂着したところ、島の者どもが出て来たが近寄らせようとはせず、しばらく船を岸に繋がせ、食料など与えられ、七、八日いるうちに、島の方から風が吹き出すとともに、船は走るように能登の国に帰り着いた。
その後、その船頭の話によると、「ほんの少し見えた様子は、その島には人家がたくさん重なり合い、京のように小路があり、人の往来も多かった」と言う。島の様子を見せまいとして、近くには寄らせなかったようである。
最近でも、遥かから来る唐人は、まずその島によって食料を手に入れ、鮑や魚などを取り、そのままその島から敦賀に向かうが、唐人にも、「このような島があると、人に話すな」と口止めするそうである。
これを思うに、前世の機縁(因縁)があればこそ、その七人の者どもはその島に行って住み着き、その子孫が今もその島に住んでいるのであろう。極めて住みよい島であるらしい、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
( (1)より続く )
さて、島の主の男が、敵が攻めてくるといっていた方向を見てみると、「風が吹き起こり、海の色がただならぬ怖ろしげな様相」となっていると思っているうちに、海面が真っ青となり、光っているように見えた。その中から大きな火の玉が二つ出て来た。
「どういう事なのか」と思いながら、島の主の男が反撃に出るといっていた方角を見上げると、そちらも山の様子がただならぬ怖ろしげになっていて、草はなびき木の葉も騒いで、音高くざわめいている中から、こちらからも火の玉が二つ出て来た。
沖の方から岸近くまで寄せ来るのを見れば、十丈(30mほど)ほどもある蜈蚣(ムカデ)が泳いでくる。背は真っ青に光り、左右の横腹は赤く光っている。
一方、山の方を見れば、同じような長さで、胴回りが一抱えほどの蛇が下ってくる。
両者は、舌なめずりをして向かい合った。いずれも、怖ろしげなることこの上ない。
やがて、島の主の男が言っていたように、蛇は蜈蚣が上陸出来るほどの距離を空けて鎌首を差し上げて立つと、それを見た蜈蚣はしめたとばかりに走り上がった。互いに目を怒らせて、しばらくにらみ合っていた。
七人の釣り人は、言われた通り岩の上に登って、矢をつがえ、蛇を見守って立っていると、蜈蚣は蛇に向かって襲いかかり噛みついた。互いに、ひしひしと噛み合ううちに、共に血まみれになっていった。蜈蚣はもともと手が多く、押し掴んで食うので、常に優勢であった。
二時(フタトキ・四時間)ほども噛み合っているうちに、蛇は少し弱った様子が見え、釣り人どもの方に目配せをして、「早く射てくれ」と言っている様子なので、七人は集まって、蜈蚣の頭から始めて尾に至るまで、矢のある限り射かけ、矢の根元まで残らず射尽くした。
その後は、太刀でもって蜈蚣の手を切り落としたので、ついに倒れ伏した。
それで蛇は蜈蚣から離れ退いたので、七人は蜈蚣を滅多切りにして殺してしまった。
これを見て、蛇は弱り果てた様子で山の奥に帰って行った。
それからしばらくして、この島の主の男が、片足を引きずって、とても苦しそうな様子で、顔などが傷つき、血を流しながら出て来た。
また、食べ物などを持ってきて、釣り人どもに食べさせ、大いに喜んで感謝した。そして、蜈蚣を切り離して、山の木を伐ってきて上に乗せ、焼いてしまってその灰や骨などは遠くに捨ててしまった。
それから島の主の男は釣り人どもに、「私は、あなた方のお蔭で、この島を無事に領有することが出来ました。大変嬉しいことです。この島には、田を作る所が多くあり、畑は限りないほどあり、果物の木も数限りなくあります。それゆえ、何かにつけ暮らしやすい島なのです。あなた方もこの島にやって来て住むと良い、と思うのですが、どうでしょうか」と勧めた。
釣り人どもは、「大変嬉しいことですが、妻子はどうすれば良いのでしょうか」と尋ねると、島の主の男は、「その人たちを迎えに行ってから来ればよいでしょう」と言う。「だが、どうすれば此処に連れてくることが出来ますか」と釣り人が尋ねると、島の主の男は、「向こうへ渡る時は、こちらから風を吹かせて送りましょう。向こうからこちらに来る時は、加賀の国に鎮座される熊田の宮と申す社は、私の分かれです。こちらに来ようと思った時は、その宮をお祭り申し上げれば、容易くこちらへ来ることが出来ます」などと詳しく教え、途中の食糧などを船に積みこんで船出させると、島の方からにわかに風が吹き始め、たちまちのうちに加賀国に走り渡った。
七人の者たちは、それぞれ本の家に帰り、彼の島に行こうという者を誘って引き連れ、密かに出かけようと船七艘を準備し、作物の種などを十分に用意し、まず熊田の宮に詣で、事の次第を申し上げて、船に乗り沖に漕ぎ出すと、またにわかに風が吹き出し、七艘とも島に渡り着くことが出来た。
その後、七人の者どもは、その島において田畠を耕し、住まいを広げ、子孫が数多く増えて、今も住んでいるという。
その島の名を猫の島というそうである。その島の人は、年に一度加賀の国に渡り、熊田の宮の祭りをするというので、この国の人がそのことを知って様子を覗き見しようとするそうだが、どうしても見つけることが出来なかったという。島の者は、思いもかけぬ夜中などに渡ってきて、祭り事をして帰ってしまうので、その跡を見て、「いつものように祭りをしたのだ」と気付くのだという。その祭りは毎年行われ、今も絶えていないという。
その島は、能登国の某(意識的な欠字)郡の大宮という所からよく見えるそうで、曇った日に眺めると、遥か離れた所に、西側が高く青み渡って見えるということである。
今を去る、某々年(意識的な欠字)の頃、能登の国に某(意識的な欠字)常光という船頭がいた。その船頭は風に吹き放たれて彼の島に漂着したところ、島の者どもが出て来たが近寄らせようとはせず、しばらく船を岸に繋がせ、食料など与えられ、七、八日いるうちに、島の方から風が吹き出すとともに、船は走るように能登の国に帰り着いた。
その後、その船頭の話によると、「ほんの少し見えた様子は、その島には人家がたくさん重なり合い、京のように小路があり、人の往来も多かった」と言う。島の様子を見せまいとして、近くには寄らせなかったようである。
最近でも、遥かから来る唐人は、まずその島によって食料を手に入れ、鮑や魚などを取り、そのままその島から敦賀に向かうが、唐人にも、「このような島があると、人に話すな」と口止めするそうである。
これを思うに、前世の機縁(因縁)があればこそ、その七人の者どもはその島に行って住み着き、その子孫が今もその島に住んでいるのであろう。極めて住みよい島であるらしい、
となむ語り伝へたるとや。
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