第五章 ( 二十四 )
さて、早いものでございまして、今年は姫さまの御父上であります故大納言殿の三十三年にあたります。
姫さまは、定められた通りの仏事を執り行われ、大事の時にお願いする聖のもとに諷誦文(フジュモン・追善のために、布施物を記し読経を僧に請う文)を遣わされましたが、それには次のような御歌が添えられておりました。
『 つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ 十(トオ)づつ三つに三つ余るまで 』
( つれなくも命長らえて、御父上に死別してから十年を三つと、さらに三年を越えて、三十三回忌を迎える年にめぐり逢ってしまいました。)
御父上を荼毘に付されました神楽岡という所を、姫さまはお尋ねになられました。
そこは、古びた苔がむして露が深く、道を埋めた木の葉の下を分けて行きますと、石の卒塔婆が、いかにも形見だと言っているかのように残っているのが、姫さまのお心をひとしお苦しくさせたようでございます。
「それにしても、この度の勅撰集(新後撰集)に亡き父が作者から漏れられたのは、まことに悲しい。わたくしがもし宮中に居て申し入れするならば、載せられないことなどなかったでしょうに。続古今集以来、久我家は代々の勅撰集の作者であったのです。また、わたくし自身の昔を思うにつけても、具平親王から八代伝えられてきた和歌の伝統が、虚しく絶えてしまうのかと思うと・・」
と、姫さまは涙を流されるのでございました。
『 古(フ)りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に 身はいたづらに海人(アマ)の捨て舟 』
( 古びてしまった久我源氏の家名が惜しゅうございます。この身は、和歌の浦になす術もなく打ち捨てられた海人の捨て舟のような存在です。)
その夜は、姫さまは悔しさにほとんど眠られぬご様子でございました。
亡き御父上の最期終焉の時の言葉などを思いだされているご様子でございました。
夜更けて、姫さまのまどろみの中に御父上の大納言殿が、昔のままの姿で現れたそうでございます。
姫さまも昔の姫さまに戻られて、その悔しさを述べられますと、御父上は、
「わが祖父である久我太政大臣通光(ミチテル)公は、『落葉が峯の露の色づく』という歌言葉を述べ、私は『おのがこしぢも春のほかかは』と詠んで以来、代々の勅撰集の作者である。そなたの外祖父兵部卿藤原隆親は、文永元年の後嵯峨院の鷲尾の臨幸の際に、『今日こそ花の色は添へつれ』とお詠みになった。そなたは、父方、母方のいずれの側からいっても、捨てられて良いはずの身ではない。具平親王以来、久我家は久しいものになるが、和歌の浦波は絶えたことはない」
などと話された上で、立ち去る際に、
『 なほもただかきとめてみよ藻塩草 人をも別かずなさけある世に 』
( やはり、ただ一心に歌を読み書きとどめていなさい。人を区別せずに情けをかけてくれるこの御代であるから。)
と詠まれて立ち去られた時に、姫さまは目覚めされたそうでございます。
(父の話の中の歌は、次の歌を指している。)
『限りあればしのぶの山の麓にも 落葉が上の露ぞ色づく』新古今集・久我通光
『何ゆゑか霞めば雁の帰るらむ おのがこしぢも春のほかかは』続後撰集・源雅忠
『ふりにける代々のみゆきの跡なれど 今日こそ花に色は添へつれ』続古今集・藤原隆親
☆ ☆ ☆
さて、早いものでございまして、今年は姫さまの御父上であります故大納言殿の三十三年にあたります。
姫さまは、定められた通りの仏事を執り行われ、大事の時にお願いする聖のもとに諷誦文(フジュモン・追善のために、布施物を記し読経を僧に請う文)を遣わされましたが、それには次のような御歌が添えられておりました。
『 つれなくぞめぐりあひぬる別れつつ 十(トオ)づつ三つに三つ余るまで 』
( つれなくも命長らえて、御父上に死別してから十年を三つと、さらに三年を越えて、三十三回忌を迎える年にめぐり逢ってしまいました。)
御父上を荼毘に付されました神楽岡という所を、姫さまはお尋ねになられました。
そこは、古びた苔がむして露が深く、道を埋めた木の葉の下を分けて行きますと、石の卒塔婆が、いかにも形見だと言っているかのように残っているのが、姫さまのお心をひとしお苦しくさせたようでございます。
「それにしても、この度の勅撰集(新後撰集)に亡き父が作者から漏れられたのは、まことに悲しい。わたくしがもし宮中に居て申し入れするならば、載せられないことなどなかったでしょうに。続古今集以来、久我家は代々の勅撰集の作者であったのです。また、わたくし自身の昔を思うにつけても、具平親王から八代伝えられてきた和歌の伝統が、虚しく絶えてしまうのかと思うと・・」
と、姫さまは涙を流されるのでございました。
『 古(フ)りにける名こそ惜しけれ和歌の浦に 身はいたづらに海人(アマ)の捨て舟 』
( 古びてしまった久我源氏の家名が惜しゅうございます。この身は、和歌の浦になす術もなく打ち捨てられた海人の捨て舟のような存在です。)
その夜は、姫さまは悔しさにほとんど眠られぬご様子でございました。
亡き御父上の最期終焉の時の言葉などを思いだされているご様子でございました。
夜更けて、姫さまのまどろみの中に御父上の大納言殿が、昔のままの姿で現れたそうでございます。
姫さまも昔の姫さまに戻られて、その悔しさを述べられますと、御父上は、
「わが祖父である久我太政大臣通光(ミチテル)公は、『落葉が峯の露の色づく』という歌言葉を述べ、私は『おのがこしぢも春のほかかは』と詠んで以来、代々の勅撰集の作者である。そなたの外祖父兵部卿藤原隆親は、文永元年の後嵯峨院の鷲尾の臨幸の際に、『今日こそ花の色は添へつれ』とお詠みになった。そなたは、父方、母方のいずれの側からいっても、捨てられて良いはずの身ではない。具平親王以来、久我家は久しいものになるが、和歌の浦波は絶えたことはない」
などと話された上で、立ち去る際に、
『 なほもただかきとめてみよ藻塩草 人をも別かずなさけある世に 』
( やはり、ただ一心に歌を読み書きとどめていなさい。人を区別せずに情けをかけてくれるこの御代であるから。)
と詠まれて立ち去られた時に、姫さまは目覚めされたそうでございます。
(父の話の中の歌は、次の歌を指している。)
『限りあればしのぶの山の麓にも 落葉が上の露ぞ色づく』新古今集・久我通光
『何ゆゑか霞めば雁の帰るらむ おのがこしぢも春のほかかは』続後撰集・源雅忠
『ふりにける代々のみゆきの跡なれど 今日こそ花に色は添へつれ』続古今集・藤原隆親
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます