第五章 ( 九 )
広沢の与三入道と申される者の江田の主人への命令は、大変ありがたい事でしたので、姫さまともどもお会いして事情を話しますと、
「才能は、その身のあだになることもあるのですねぇ。あなたのご才能ゆえに、和知の者は自分の所に欲しいと思ってしまい、あのようなことを言いだしたのでしょう」
と了解を求められて、この難儀は解決されたようでございます。
この後、お誘いを受け、姫さまは連歌や続歌など詠んでお遊びの時間を送られましたが、そうこうお話などなさっているうちに、この入道殿は鎌倉で飯沼左衛門殿の連歌に加わっていた人だったのです。
このことが分かると入道殿は大変驚き、当時の思い出話などに時を過ごした後、井田(広島県三次市内か)という所へ帰られました。
雪がたいそう降って、竹簀垣(タケスガキ)というものをしているところの様も、見慣れぬ心地がして、都を遠く離れていることを今更のように感じられ、姫さまも次のような御歌を詠まれております。
『 世を厭ふならひながらも竹簀垣 憂き節々は冬ぞ悲しき 』
(世を厭う習いとはいいながら、めぐらした竹簀垣の浮き上がった節々のように、辛いことの多い冬は悲しい。)
雪に閉ざされがちの日を送り、やがて年も改まりました。
ようやく、都に向かって出立しようと相談いたしましたが、余寒はまだ厳しく、「船もどうだろうか。果たして出るだろうか」などと人々は申しますので、不安なままにあれこれとぐずぐずしておりますうちに、二月の末にもなってしまいました。
もうこのあたりで出立しようと姫さまが強く申されますので、準備に取り掛かりました。
すると、その噂を聞きつけて、かの入道殿は井田という所よりやって来て、続歌など詠んでひと時を過ごし、帰り際には餞別など様々なご厚意を下さいました。
旅の途上のこととて、過分な餞別は供の者にとりましてはまことに有り難い限りでございました。
これは、入道殿が、姫さまと鎌倉で連歌の会に同席したことが分かったことから、姫さまのご身分を承知されたからのようでございます。
入道殿は、鎌倉の小町殿の所においでになる中務の宮(宗尊親王・六代鎌倉将軍。後深草院とは異母兄弟)の姫宮の後見役を務めておられますこともあって、姫さまに格別のご厚誼を示されたのかもしれません。
☆ ☆ ☆
広沢の与三入道と申される者の江田の主人への命令は、大変ありがたい事でしたので、姫さまともどもお会いして事情を話しますと、
「才能は、その身のあだになることもあるのですねぇ。あなたのご才能ゆえに、和知の者は自分の所に欲しいと思ってしまい、あのようなことを言いだしたのでしょう」
と了解を求められて、この難儀は解決されたようでございます。
この後、お誘いを受け、姫さまは連歌や続歌など詠んでお遊びの時間を送られましたが、そうこうお話などなさっているうちに、この入道殿は鎌倉で飯沼左衛門殿の連歌に加わっていた人だったのです。
このことが分かると入道殿は大変驚き、当時の思い出話などに時を過ごした後、井田(広島県三次市内か)という所へ帰られました。
雪がたいそう降って、竹簀垣(タケスガキ)というものをしているところの様も、見慣れぬ心地がして、都を遠く離れていることを今更のように感じられ、姫さまも次のような御歌を詠まれております。
『 世を厭ふならひながらも竹簀垣 憂き節々は冬ぞ悲しき 』
(世を厭う習いとはいいながら、めぐらした竹簀垣の浮き上がった節々のように、辛いことの多い冬は悲しい。)
雪に閉ざされがちの日を送り、やがて年も改まりました。
ようやく、都に向かって出立しようと相談いたしましたが、余寒はまだ厳しく、「船もどうだろうか。果たして出るだろうか」などと人々は申しますので、不安なままにあれこれとぐずぐずしておりますうちに、二月の末にもなってしまいました。
もうこのあたりで出立しようと姫さまが強く申されますので、準備に取り掛かりました。
すると、その噂を聞きつけて、かの入道殿は井田という所よりやって来て、続歌など詠んでひと時を過ごし、帰り際には餞別など様々なご厚意を下さいました。
旅の途上のこととて、過分な餞別は供の者にとりましてはまことに有り難い限りでございました。
これは、入道殿が、姫さまと鎌倉で連歌の会に同席したことが分かったことから、姫さまのご身分を承知されたからのようでございます。
入道殿は、鎌倉の小町殿の所においでになる中務の宮(宗尊親王・六代鎌倉将軍。後深草院とは異母兄弟)の姫宮の後見役を務めておられますこともあって、姫さまに格別のご厚誼を示されたのかもしれません。
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