運命紀行
名君への軌跡
こんな逸話が残されている。
三代将軍徳川家光が、目黒に鷹狩に出掛けた時のことである。
休息をしようとして成就院という寺院に立ち寄って、その旨を申し出ると、ちょうど垣根の手入れをしていた住職が、
「皆さまはいずれよりおいでになられたか」
と尋ねると、家光が答えた。
「われらは将軍家の御供の者なり」
特に身分を隠すこともなかったのであろうが、いきなり自分が将軍だと名乗っては住職を驚かせると思ってついた嘘であった。
住職は家光らを客殿に案内したが、その壁には見事な菊の絵が描かれていた。
「このような片田舎の御寺に珍しく、まことに見事なものかな、いかなる旦那が御寄進なされたものなのか」
と感嘆の表情で家光が尋ねると、住職が答えた。
「保科肥後守殿と申される方の御母上が、常に祈祷の御頼みがございますが、それも御家が貧しいものですから、布施のものも十分ではないと申されましてな」
保科肥後守の御母上、お静の方は、高遠へ移ってからも成就院にいくばくかの寄進を続けていたらしい。
住職は、さらに言葉を続けた。
「あの保科肥後守と申される方は、今の将軍家の正しき御弟と承っていますが、僅かな地を領し、貧しくあられるのがいたわしゅうございます。賤しき身分の者であっても、兄弟の親しみ深いは人のならいでございますのに、どういうことなのでしょうか、貴き御方は情けないものでございます」
これを聞いた家光は、「御顔の色少し損じさせ給ひて」成就院を去ったという。
この逸話は、寛永八年(1681)十一月に保科正之が将軍家光より高遠保科家三万石の相続を許されて間もない頃のこととされている。しかも、翌年一月には二代将軍秀忠が死去しているので、その以降しばらくは家光が鷹狩に出ることなど考えられないので、ほんとに直後のことであったらしい。
しかも、家光が自分の異母弟の存在を知ったのがこの時が最初であったとすれば、正之を自分の弟であることを知らないままに、保科家の相続を認めたことになる。
そして、家光のこの経験が、やがて保科正之という人物を歴史の表舞台へと誘うことになり、同時に、徳川幕府安泰への大きな力を得ることにもなったのである。
* * *
徳川二代将軍秀忠は、歴史上正確な評価がされ難かった人物ではないだろうか。
最近でこそ、家康という大人物の偉業を引き継いで、しかも大名家に対する厳しい対応などを通じて、徳川長期政権の基礎を築いた人物としての評価がなされているようであるが、かつては、関ヶ原の戦いに遅延するなど武将として凡庸であったとか、嫡男を死なせ次男を秀吉の養子としてしまった家康が仕方なしに決めた後継者だという評価さえあったようだ。
正妻として迎えた浅井三姉妹の末娘お江に頭が上がらず、側室を持たなかったというのもその種の伝聞の一つに過ぎないのではないのだろうか。
確かに、秀忠には公式に認められた側室は一人もいなかった。お江との仲睦まじく多くの子宝に恵まれたからだともいえるが、一人でも多くの男子を得たい当時の武将にとって、嫡男誕生が遅れていた秀忠が側室を一人も持たなかったということは、若干異例であり、年上であり信長公の血筋であるお江に頭が上がらなかったからだというのも、話としては面白い。
その秀忠に子を成した女性がいた。後にお静の方と呼ばれる女性である。
お静は、天正十二年(1584)の生まれであるから、秀忠より五歳下である。
父は、神尾伊予栄加という牢人で、もとは小田原北条氏に仕えていた。その後、徳川家への仕官を求めて江戸に移り住んでいた。そして、次女であるお静は、秀忠の乳母で、その頃大乳母殿と呼ばれていた女性のもとに出仕した。大乳母殿は秀忠政権下で老中を務めた井上正就の母であるが、神尾家は井上家と何らかの伝手があったらしい。
大乳母殿は、江戸城大奥に部屋が与えられており、お静も大乳母殿付きの奥女中になったのである。
当時の武家社会において、乳母と乳を与えられた子との繋がりは相当強いものであった。春日局と家光の関係などはその典型のようなものであるが、秀忠もこの大乳母殿を慕っていたらしく、時々挨拶に訪れていた。そこで、秀忠がお静を見染め、御手付きとなったのである。
やがて、お静は懐妊。本来なら、この段階でお静は晴れて側室として遇せられるはずであるが、秀忠の意思が働いてか否かは不明であるが、この子は日の目を見ることがなかった。
大乳母殿の指示により、兄神尾嘉右衛門のもとに帰されたお静は、一族の意向として流産させられてしまったのである。伝えられているものによれば、神尾一族は家族会議を開いて相談したが、秀忠夫人に知られることを恐れての決心であったという。
お静という女性は、温厚というか欲のない人物であったらしく、徳川家や秀忠に対する不満のようなものを述べることはなかったらしく、この後は大奥とは離れての生活を望んでいたらしい。
しかし、秀忠の思いは消えておらず、大乳母殿を動かしてお静をふたたび大奥に連れ戻したのである。
その立場は、まさに秘密の側室というような微妙なものであったが、お静は再び懐妊し、前と同じように兄のもとに帰されることとなった。
神尾一族は再び家族会議を開き、前回と同じ悲劇的な結末が下されようとした時、姉婿の武村助兵衛と弟の神尾才兵衛が異を唱えたという。
「将軍家の御子を、二度までも水と成しては天罰が恐ろしい」と述べ、「たとえ、この儀により一族全てが処刑されようとも、甘んじて受けよう」と、お静に出産させることを決意させたのである。
将軍家の子供を産むということが、晴れがましいどころか、これほどの決断を必要としたことに驚きを感じるが、それはひとえに将軍御台所お江の方を恐れてのことと伝えられている。お江が直接そのような行動に出るとはとても考えられないが、お世継ぎをめぐる血なまぐさい争いは、武家公家を問わず珍しいことではない。秀忠やお江にそのような意向がなくとも、取り巻く人々の利害に直接関係する可能性もあることであり、お静の一族が懸念したことも一概に大げさというわけにはいかない。
将軍家の支援を受けられないお静に、力強い味方が登場する。
武田信玄の次女で穴山梅雪未亡人の見性院と異母妹の信松院である。見性院は、徳川家より六百石の知行を得ていて、江戸城田安門内に屋敷があり、武州安達郡大牧村に知行所を持っていた。信松院は、八王子で尼寺を営み、武田家の人々の菩提を弔っていた。
おそらく、大乳母殿と見性院とは交流があり、お静が使いに立ったこともあったのかもしれない。そこで、事情を知って、あるいは大乳母殿の働きもあって、お静を助けることになったと考えられる。
慶長十六年(1611)五月七日、お静は無事男の子を出産、身を寄せていた姉婿の武村助兵衛は、直ちに町奉行米津勘兵衛に披露し、勘兵衛はすぐさま老中土井利勝に報告した。
土井利勝は登城して秀忠に伝えると、
「覚えがある」
と答えて、葵の紋付の小袖を利勝に託した。生まれた子供の名前「幸松」も秀忠の命名とも言われている。
しかし秀忠は、お静と生まれた子を江戸城に迎えようとはしなかった。認めはするが子としては遇しないという態度を取ったのである。
幸松と名付けられた子供は、武村助兵衛宅で育てられることになったが、家主の四条藤右衛門らの支援を受け、また、町奉行米津勘兵衛の支援も受けたようであるから、秀忠または土井利勝あたりの密かな援助があったのかもしれない。
しかし一方で、お江の方の手の者が秀忠の落胤を探しているとの情報もあり、幸松を守り育てる人たちはまさに命がけの毎日であった。
慶長十八年(1613)三月、土井利勝と本多正信が田安門内の見性院屋敷を訪れ、「幸松様を養子として養育して欲しい」と申し入れた。幸松やお静の身の危険を察知した上のことであったのかもしれない。
見性院はすでに六十八、九歳くらいになっていたが、さすがに戦国の雄武田信玄の娘らしく、即座に了解した。
大乳母殿との関係や、お静をよく知っていたこともあるが、徳川の血を引く子供によって、武田家再興を夢見た面もあったのかもしれない。幸松、三歳の頃のことであった。
しかし、幸松が七歳を迎える頃になっても、将軍家からは何の音沙汰もなく、女手ばかりの見性院のもとでは将来の武将を育てるのには不安があった。武田家再興の夢は消えるとしても、然るべき人物に幸松の養育を委ねる決意を見性院は固めた。
その白羽の矢が立ったのは、信州高遠藩主保科正光であった。
保科氏は、源平の昔から信州の豪族であった。激しい戦乱の世を、武田氏、織田氏、そして今は徳川氏に属してはいるが、正光は今も江戸出府の折には旧主武田信玄の娘である見性院を訪れる律儀者であった。
見性院は、この武将に数奇な運命を背負わされている幼子を託そうと考えたのである。
この後も幸松は、保科家相続や父秀忠との正式名乗りという問題を抱えながらも、保科正之という名君に育っていく。
冒頭にある、三代将軍となった異母兄家光の厚い信頼を受けたことが、保科正之を名君たらしめたともいえるが、同時に、家光が、そして徳川政権があれほどの繁栄を続けることが出来たのに、保科正之の力も小さからぬ貢献があったといえるが、それはまた別の機会に譲りたい。
( 完 )
名君への軌跡
こんな逸話が残されている。
三代将軍徳川家光が、目黒に鷹狩に出掛けた時のことである。
休息をしようとして成就院という寺院に立ち寄って、その旨を申し出ると、ちょうど垣根の手入れをしていた住職が、
「皆さまはいずれよりおいでになられたか」
と尋ねると、家光が答えた。
「われらは将軍家の御供の者なり」
特に身分を隠すこともなかったのであろうが、いきなり自分が将軍だと名乗っては住職を驚かせると思ってついた嘘であった。
住職は家光らを客殿に案内したが、その壁には見事な菊の絵が描かれていた。
「このような片田舎の御寺に珍しく、まことに見事なものかな、いかなる旦那が御寄進なされたものなのか」
と感嘆の表情で家光が尋ねると、住職が答えた。
「保科肥後守殿と申される方の御母上が、常に祈祷の御頼みがございますが、それも御家が貧しいものですから、布施のものも十分ではないと申されましてな」
保科肥後守の御母上、お静の方は、高遠へ移ってからも成就院にいくばくかの寄進を続けていたらしい。
住職は、さらに言葉を続けた。
「あの保科肥後守と申される方は、今の将軍家の正しき御弟と承っていますが、僅かな地を領し、貧しくあられるのがいたわしゅうございます。賤しき身分の者であっても、兄弟の親しみ深いは人のならいでございますのに、どういうことなのでしょうか、貴き御方は情けないものでございます」
これを聞いた家光は、「御顔の色少し損じさせ給ひて」成就院を去ったという。
この逸話は、寛永八年(1681)十一月に保科正之が将軍家光より高遠保科家三万石の相続を許されて間もない頃のこととされている。しかも、翌年一月には二代将軍秀忠が死去しているので、その以降しばらくは家光が鷹狩に出ることなど考えられないので、ほんとに直後のことであったらしい。
しかも、家光が自分の異母弟の存在を知ったのがこの時が最初であったとすれば、正之を自分の弟であることを知らないままに、保科家の相続を認めたことになる。
そして、家光のこの経験が、やがて保科正之という人物を歴史の表舞台へと誘うことになり、同時に、徳川幕府安泰への大きな力を得ることにもなったのである。
* * *
徳川二代将軍秀忠は、歴史上正確な評価がされ難かった人物ではないだろうか。
最近でこそ、家康という大人物の偉業を引き継いで、しかも大名家に対する厳しい対応などを通じて、徳川長期政権の基礎を築いた人物としての評価がなされているようであるが、かつては、関ヶ原の戦いに遅延するなど武将として凡庸であったとか、嫡男を死なせ次男を秀吉の養子としてしまった家康が仕方なしに決めた後継者だという評価さえあったようだ。
正妻として迎えた浅井三姉妹の末娘お江に頭が上がらず、側室を持たなかったというのもその種の伝聞の一つに過ぎないのではないのだろうか。
確かに、秀忠には公式に認められた側室は一人もいなかった。お江との仲睦まじく多くの子宝に恵まれたからだともいえるが、一人でも多くの男子を得たい当時の武将にとって、嫡男誕生が遅れていた秀忠が側室を一人も持たなかったということは、若干異例であり、年上であり信長公の血筋であるお江に頭が上がらなかったからだというのも、話としては面白い。
その秀忠に子を成した女性がいた。後にお静の方と呼ばれる女性である。
お静は、天正十二年(1584)の生まれであるから、秀忠より五歳下である。
父は、神尾伊予栄加という牢人で、もとは小田原北条氏に仕えていた。その後、徳川家への仕官を求めて江戸に移り住んでいた。そして、次女であるお静は、秀忠の乳母で、その頃大乳母殿と呼ばれていた女性のもとに出仕した。大乳母殿は秀忠政権下で老中を務めた井上正就の母であるが、神尾家は井上家と何らかの伝手があったらしい。
大乳母殿は、江戸城大奥に部屋が与えられており、お静も大乳母殿付きの奥女中になったのである。
当時の武家社会において、乳母と乳を与えられた子との繋がりは相当強いものであった。春日局と家光の関係などはその典型のようなものであるが、秀忠もこの大乳母殿を慕っていたらしく、時々挨拶に訪れていた。そこで、秀忠がお静を見染め、御手付きとなったのである。
やがて、お静は懐妊。本来なら、この段階でお静は晴れて側室として遇せられるはずであるが、秀忠の意思が働いてか否かは不明であるが、この子は日の目を見ることがなかった。
大乳母殿の指示により、兄神尾嘉右衛門のもとに帰されたお静は、一族の意向として流産させられてしまったのである。伝えられているものによれば、神尾一族は家族会議を開いて相談したが、秀忠夫人に知られることを恐れての決心であったという。
お静という女性は、温厚というか欲のない人物であったらしく、徳川家や秀忠に対する不満のようなものを述べることはなかったらしく、この後は大奥とは離れての生活を望んでいたらしい。
しかし、秀忠の思いは消えておらず、大乳母殿を動かしてお静をふたたび大奥に連れ戻したのである。
その立場は、まさに秘密の側室というような微妙なものであったが、お静は再び懐妊し、前と同じように兄のもとに帰されることとなった。
神尾一族は再び家族会議を開き、前回と同じ悲劇的な結末が下されようとした時、姉婿の武村助兵衛と弟の神尾才兵衛が異を唱えたという。
「将軍家の御子を、二度までも水と成しては天罰が恐ろしい」と述べ、「たとえ、この儀により一族全てが処刑されようとも、甘んじて受けよう」と、お静に出産させることを決意させたのである。
将軍家の子供を産むということが、晴れがましいどころか、これほどの決断を必要としたことに驚きを感じるが、それはひとえに将軍御台所お江の方を恐れてのことと伝えられている。お江が直接そのような行動に出るとはとても考えられないが、お世継ぎをめぐる血なまぐさい争いは、武家公家を問わず珍しいことではない。秀忠やお江にそのような意向がなくとも、取り巻く人々の利害に直接関係する可能性もあることであり、お静の一族が懸念したことも一概に大げさというわけにはいかない。
将軍家の支援を受けられないお静に、力強い味方が登場する。
武田信玄の次女で穴山梅雪未亡人の見性院と異母妹の信松院である。見性院は、徳川家より六百石の知行を得ていて、江戸城田安門内に屋敷があり、武州安達郡大牧村に知行所を持っていた。信松院は、八王子で尼寺を営み、武田家の人々の菩提を弔っていた。
おそらく、大乳母殿と見性院とは交流があり、お静が使いに立ったこともあったのかもしれない。そこで、事情を知って、あるいは大乳母殿の働きもあって、お静を助けることになったと考えられる。
慶長十六年(1611)五月七日、お静は無事男の子を出産、身を寄せていた姉婿の武村助兵衛は、直ちに町奉行米津勘兵衛に披露し、勘兵衛はすぐさま老中土井利勝に報告した。
土井利勝は登城して秀忠に伝えると、
「覚えがある」
と答えて、葵の紋付の小袖を利勝に託した。生まれた子供の名前「幸松」も秀忠の命名とも言われている。
しかし秀忠は、お静と生まれた子を江戸城に迎えようとはしなかった。認めはするが子としては遇しないという態度を取ったのである。
幸松と名付けられた子供は、武村助兵衛宅で育てられることになったが、家主の四条藤右衛門らの支援を受け、また、町奉行米津勘兵衛の支援も受けたようであるから、秀忠または土井利勝あたりの密かな援助があったのかもしれない。
しかし一方で、お江の方の手の者が秀忠の落胤を探しているとの情報もあり、幸松を守り育てる人たちはまさに命がけの毎日であった。
慶長十八年(1613)三月、土井利勝と本多正信が田安門内の見性院屋敷を訪れ、「幸松様を養子として養育して欲しい」と申し入れた。幸松やお静の身の危険を察知した上のことであったのかもしれない。
見性院はすでに六十八、九歳くらいになっていたが、さすがに戦国の雄武田信玄の娘らしく、即座に了解した。
大乳母殿との関係や、お静をよく知っていたこともあるが、徳川の血を引く子供によって、武田家再興を夢見た面もあったのかもしれない。幸松、三歳の頃のことであった。
しかし、幸松が七歳を迎える頃になっても、将軍家からは何の音沙汰もなく、女手ばかりの見性院のもとでは将来の武将を育てるのには不安があった。武田家再興の夢は消えるとしても、然るべき人物に幸松の養育を委ねる決意を見性院は固めた。
その白羽の矢が立ったのは、信州高遠藩主保科正光であった。
保科氏は、源平の昔から信州の豪族であった。激しい戦乱の世を、武田氏、織田氏、そして今は徳川氏に属してはいるが、正光は今も江戸出府の折には旧主武田信玄の娘である見性院を訪れる律儀者であった。
見性院は、この武将に数奇な運命を背負わされている幼子を託そうと考えたのである。
この後も幸松は、保科家相続や父秀忠との正式名乗りという問題を抱えながらも、保科正之という名君に育っていく。
冒頭にある、三代将軍となった異母兄家光の厚い信頼を受けたことが、保科正之を名君たらしめたともいえるが、同時に、家光が、そして徳川政権があれほどの繁栄を続けることが出来たのに、保科正之の力も小さからぬ貢献があったといえるが、それはまた別の機会に譲りたい。
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