( 七 )
美沙子と初めて会った時点で、彼女は真沙子の娘に違いないと飯島は確信していた。
世間にはよく似た人はいるものである。飯島が真沙子と交際していたのは、二十五年も昔のことで、それも、一年に満たない期間だった。その後は一度も会ったことがない。
当時の写真はすべて処分してしまっていたし、記憶というものがそれほど正確なものでないことも承知していた。それでも、美沙子を初めて見た時のあの衝撃は、顔かたちや仕草が似ているなどといったことを越えて、飯島に迫る何かがあった。
そしてその次に、というより殆ど同時に、自分の子供かもしれないとも思った。
あの時の、あの突然の別れは、青春の日の苦い思い出というには、あまりにも重いものだった。その重さは、慌ただしく走り続けていた時には殆ど感じることもなかったが、いつか五十歳の声を聞く頃から飯島の心に意識させるようになってきていた。
会社における職務の重要さが増すほどに心身を没頭させてはいたが、その一方で、走ってきた人生をふと立ち止まって振り返ることも増えてきていた。その度に、それは重さを増して飯島に迫った。
時を経て、冷静に考えてみれば、あの真沙子が、自分とあれほど充実した生活をもっていながら社長と男女の仲になるなどあるはずがない。そういう噂があるとしても、むしろそういう噂がある時こそ自分が力になるべきではなかったのかと、飯島は今になって思うことがあるが、詮無いことだった。
真沙子は、心ない噂を疑われたことに絶望したのではなく、疑いを持つような男の心根に失望したのだと、飯島は今になって痛切に思うのだった。
なぜあの時には、これほど明白なことを見通すことが出来なかったのかと胸が痛んだ。真沙子との将来に夢を描いていたさなかの噂話など、ある筈もない中傷だと受け止めることがなぜ出来なかったのかと、歳を数えるごとに後悔の念が増大していっていた。
何ものにも代えがたい愛であるとか、それを超えるような尊敬の念であるとかいった思いを真沙子に抱いていたのが、あの噂により裏切られたと思ったのだが、年を経て思い返してみれば、たったあれだけのことで揺らぐ思いなどは愛でも尊敬でもなく、自分自身が幸せになりたいという思いに過ぎなかったのだと心に突き刺さってくるのだ。
あの頃、飯島の頭の中にあったものは、自分自身の幸せのための設計図だけであり、その設計図の中に自分にとって都合のよい役割を真沙子に期待していたに過ぎなかったのだ。真沙子の幸せや将来についての配慮など全くなく、愛するということの意味さえも分かっていなかったのかもしれない。
その何よりの証拠は、あの時真沙子が妊娠していることなど全く気付かなかったのである。そしてまた、その事実を知った時に、なぜ自分の子供だと思わなかったのか・・・。若い日の苦い思い出は、年齢を重ねるとともに飯島の心を苛み始めていた。
飯島が真沙子を愛していたことに偽りはなかった。その愛が、一方的に奪う愛であって、相手に露ほどのものさえ与えることのないものだったとしても、真沙子を恋う心情に打算も思惑もなかったことは確かだと今でもいえる。
しかし、結局は真沙子と別れることになってしまった。それも、突き放すかのようにしてだった。
なぜあの時、真沙子の跡を追おうとしなかったのか・・・。悔んでみても、そこにはニ十五年という歳月が過ぎ去っていた。
**
飯島が美沙子と出会ったのは、そのような自責の念に押し潰されそうな時だった。
その出会いは、決して偶然のものではなく、真沙子からの何らかのメッセージだと飯島は思った。そして、今度は自分が美沙子を護らなくてはならないと思った。奪う愛ではなく、一方的に与える愛で美沙子を護らなくてはならないと思ったのである。
美沙子が真沙子の子供であるかどうかについては、まだ確認できているわけではなかった。しかし、飯島は確信していた。美沙子の年齢は二十五歳位に見え、そのことが飯島により大きな動揺を与えていたが、実際は二十二歳だった。
青山がママの智子から聞き出したもので、健康保険証で確認しているということなので正確な情報だと考えられる。ということになれば、少なくとも美沙子が飯島の子供だということはあり得なかった。
美沙子は、自分の過去について殆ど語ろうとしなかった。両親とは死別していて、近い親戚もいないということや、出生は東京近郊だということぐらいしか分かっていなかった。
飯島も、美沙子のことをもっと知りたいと思いながらも、青山や智子から得た情報から推定しても語りたくない過去をもっていることは十分想像できた。専門業者による調査や本人に今強く質問することも考えてはみたが、若い日の過ちを繰り返しているような気がして控えていた。
あの夜、全裸で体を投げ出してきた美沙子を抱きしめた時、飯島はわが子を抱きしめている思いだった。誕生の時突きっ放していた父親としての詫びる気持ちで抱きしめていたのである。
その後、美沙子がわが子でないことはほぼ確認出来たが、真沙子の子供であるかどうかはまだ確認できていない。ただ、それがどういう結果であっても、美沙子を自分の子供のように護っていきたいとの思いは日ごとに強まっていた。
しかし、飯島の思いは少しずつ変化していた。
最初は真沙子の子供としての美沙子を護りたいという気持ちだったが、血の繋がりに関係なく、自分の子供同様の美沙子として護りたいと変化していた。そしてそれが、いつか美沙子という一人の女性として幸せを掴ませたいと思うようになっていった。
美沙子が真沙子の子供だと確信している裏には、若い日の取り返しのつかない思い出の幾ばくかを償いたいという気持ちがあったことは否定できないが、最近では、もっと純粋に、魅力ある若い女性の幸せを願っていた。もちろんそれは、男女の仲としての魅力ではなかった。
飯島にとって、美沙子が真沙子の子供であるとか否とかにかかわらず、自分が保護者としての責任を果たすべき娘であり、それだけが二人を結んでいる細い糸だと考えていた。
かつて、真沙子が何の見返りも考えずに自分に尽くしてくれたことを、今度は、自分が美沙子に行いたいと飯島は考えていた。美沙子の生い立ちが何であれ、またその過去がどのようなものであれ、美沙子がこれからの幸せをつかむために自分のすべてをつぎ込んでもよいと考えていた。
美沙子と初めて会った時点で、彼女は真沙子の娘に違いないと飯島は確信していた。
世間にはよく似た人はいるものである。飯島が真沙子と交際していたのは、二十五年も昔のことで、それも、一年に満たない期間だった。その後は一度も会ったことがない。
当時の写真はすべて処分してしまっていたし、記憶というものがそれほど正確なものでないことも承知していた。それでも、美沙子を初めて見た時のあの衝撃は、顔かたちや仕草が似ているなどといったことを越えて、飯島に迫る何かがあった。
そしてその次に、というより殆ど同時に、自分の子供かもしれないとも思った。
あの時の、あの突然の別れは、青春の日の苦い思い出というには、あまりにも重いものだった。その重さは、慌ただしく走り続けていた時には殆ど感じることもなかったが、いつか五十歳の声を聞く頃から飯島の心に意識させるようになってきていた。
会社における職務の重要さが増すほどに心身を没頭させてはいたが、その一方で、走ってきた人生をふと立ち止まって振り返ることも増えてきていた。その度に、それは重さを増して飯島に迫った。
時を経て、冷静に考えてみれば、あの真沙子が、自分とあれほど充実した生活をもっていながら社長と男女の仲になるなどあるはずがない。そういう噂があるとしても、むしろそういう噂がある時こそ自分が力になるべきではなかったのかと、飯島は今になって思うことがあるが、詮無いことだった。
真沙子は、心ない噂を疑われたことに絶望したのではなく、疑いを持つような男の心根に失望したのだと、飯島は今になって痛切に思うのだった。
なぜあの時には、これほど明白なことを見通すことが出来なかったのかと胸が痛んだ。真沙子との将来に夢を描いていたさなかの噂話など、ある筈もない中傷だと受け止めることがなぜ出来なかったのかと、歳を数えるごとに後悔の念が増大していっていた。
何ものにも代えがたい愛であるとか、それを超えるような尊敬の念であるとかいった思いを真沙子に抱いていたのが、あの噂により裏切られたと思ったのだが、年を経て思い返してみれば、たったあれだけのことで揺らぐ思いなどは愛でも尊敬でもなく、自分自身が幸せになりたいという思いに過ぎなかったのだと心に突き刺さってくるのだ。
あの頃、飯島の頭の中にあったものは、自分自身の幸せのための設計図だけであり、その設計図の中に自分にとって都合のよい役割を真沙子に期待していたに過ぎなかったのだ。真沙子の幸せや将来についての配慮など全くなく、愛するということの意味さえも分かっていなかったのかもしれない。
その何よりの証拠は、あの時真沙子が妊娠していることなど全く気付かなかったのである。そしてまた、その事実を知った時に、なぜ自分の子供だと思わなかったのか・・・。若い日の苦い思い出は、年齢を重ねるとともに飯島の心を苛み始めていた。
飯島が真沙子を愛していたことに偽りはなかった。その愛が、一方的に奪う愛であって、相手に露ほどのものさえ与えることのないものだったとしても、真沙子を恋う心情に打算も思惑もなかったことは確かだと今でもいえる。
しかし、結局は真沙子と別れることになってしまった。それも、突き放すかのようにしてだった。
なぜあの時、真沙子の跡を追おうとしなかったのか・・・。悔んでみても、そこにはニ十五年という歳月が過ぎ去っていた。
**
飯島が美沙子と出会ったのは、そのような自責の念に押し潰されそうな時だった。
その出会いは、決して偶然のものではなく、真沙子からの何らかのメッセージだと飯島は思った。そして、今度は自分が美沙子を護らなくてはならないと思った。奪う愛ではなく、一方的に与える愛で美沙子を護らなくてはならないと思ったのである。
美沙子が真沙子の子供であるかどうかについては、まだ確認できているわけではなかった。しかし、飯島は確信していた。美沙子の年齢は二十五歳位に見え、そのことが飯島により大きな動揺を与えていたが、実際は二十二歳だった。
青山がママの智子から聞き出したもので、健康保険証で確認しているということなので正確な情報だと考えられる。ということになれば、少なくとも美沙子が飯島の子供だということはあり得なかった。
美沙子は、自分の過去について殆ど語ろうとしなかった。両親とは死別していて、近い親戚もいないということや、出生は東京近郊だということぐらいしか分かっていなかった。
飯島も、美沙子のことをもっと知りたいと思いながらも、青山や智子から得た情報から推定しても語りたくない過去をもっていることは十分想像できた。専門業者による調査や本人に今強く質問することも考えてはみたが、若い日の過ちを繰り返しているような気がして控えていた。
あの夜、全裸で体を投げ出してきた美沙子を抱きしめた時、飯島はわが子を抱きしめている思いだった。誕生の時突きっ放していた父親としての詫びる気持ちで抱きしめていたのである。
その後、美沙子がわが子でないことはほぼ確認出来たが、真沙子の子供であるかどうかはまだ確認できていない。ただ、それがどういう結果であっても、美沙子を自分の子供のように護っていきたいとの思いは日ごとに強まっていた。
しかし、飯島の思いは少しずつ変化していた。
最初は真沙子の子供としての美沙子を護りたいという気持ちだったが、血の繋がりに関係なく、自分の子供同様の美沙子として護りたいと変化していた。そしてそれが、いつか美沙子という一人の女性として幸せを掴ませたいと思うようになっていった。
美沙子が真沙子の子供だと確信している裏には、若い日の取り返しのつかない思い出の幾ばくかを償いたいという気持ちがあったことは否定できないが、最近では、もっと純粋に、魅力ある若い女性の幸せを願っていた。もちろんそれは、男女の仲としての魅力ではなかった。
飯島にとって、美沙子が真沙子の子供であるとか否とかにかかわらず、自分が保護者としての責任を果たすべき娘であり、それだけが二人を結んでいる細い糸だと考えていた。
かつて、真沙子が何の見返りも考えずに自分に尽くしてくれたことを、今度は、自分が美沙子に行いたいと飯島は考えていた。美沙子の生い立ちが何であれ、またその過去がどのようなものであれ、美沙子がこれからの幸せをつかむために自分のすべてをつぎ込んでもよいと考えていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます