『 やまとうたは人の心を種として 』
『 やまとうたは、人の心を種として、万(ヨロヅ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出(イダ)せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(カハズ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(アメツチ)を動かし、目に見えぬ鬼神(オニガミ)をもあはれと思はせ、男女(オトコオンナ)の中をも和らげ、猛き武士(モノノフ)の心をも慰むるは歌なり。 』
これは、古今和歌集の「仮名序(カナジョ)」の冒頭部分です。
古今和歌集には、「仮名序」と漢文による「真名序(マナジョ)」があります。
仮名序は、古今和歌集の選者の一人でもある紀貫之により書かれたものと、ほぼ定説となっていますが、わが国最初の勅撰和歌集として、その心意気が伝わってくる名文と言えましょう。もちろん、貫之が、次々と編纂される勅撰和歌集を予測していたわけではないでしょうから、「わが国最初の」といった認識は抱いていなかったでしょうが、万葉集に対する対抗意識は強かったように感じられます。
古今和歌集を味わうに当たって、仮名序は大きな意味を持っていると思われます。本稿では、その概略を紹介させていただきます。
仮名序は、冒頭部分に続き、
『 この歌、天地のひらけ初まりける時よりいできにけり。・・・ 』と、和歌の起源について述べられています。
次には、
『 そもそも、歌のさま、六つなり。唐の詩(カラのウタ)にもかくぞあるべき。その六種(ムクサ)の一つには、そへ歌(表面に詠まれていることと直接関係のない裏の意味を相手に伝えようとした歌)。 ( 中略 )
二つには、かぞへ歌(物の名前を羅列して数え上げる歌)。 ( 中略 )
三つには、なずらへ歌(歌いたい事柄を何かになぞらえて歌う歌)。 ( 中略 )
四つには、たとへ歌(草木や鳥獣に託して作者の心を表現する歌)。 ( 中略 )
五つには、ただこと歌(偽りのない正しい世の中を願う歌)。 ( 中略 )
六つには、いはひ歌(祝意の歌)。 ( 中略 )
次には、和歌の歴史について多くが記されています。その中で、歌人について述べられている部分を抜粋させていただきます。
『 古(イニシエ)よりかく伝はるうちにも、ならの御時よりぞひろまりにける。かの御世や歌の心をしろしめしたりけむ。かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける。これは、君も人も身を合わせたりといふなるべし。秋の夕(ユウベ)、龍田河に流るる紅葉をば帝の御目に錦と見たまひ、春の朝(アシタ)、吉野の山の桜は人麿が心には雲かとのみなむ覚えける。また、山部赤人といふ人ありけり。歌にあやしく妙なりけり。人麿は赤人が上(カミ)に立たむことかたく、赤人は人麿が下(シモ)に立たむことかたくなむありける。
( 中略 )
近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、
僧正遍昭(ソウジョウヘンジョウ)は、歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。 ( 中略 )
在原業平は、その心余りて、詞(コトバ)たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるごとし。 ( 中略 )
文屋康秀(フンヤノヤスヒデ)は、詞はたくみにて、そのさま身におはず。いはば、商人(アキヒト)のよき衣(キヌ)着たらむがごとし。 ( 中略 )
宇治山の僧喜撰(キセン)は、詞かすかにして、始め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし。 ( 中略 )
小野小町は、古の衣通姫(ソトオリヒメ)の流(リュウ)なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。 ( 中略 )
大友黒主は、そのさまいやし。いはば、薪(タキギ)負へる山人の花の陰に休めるがごとし。 ( 中略 )
この部分を受けて、後世の人は、「柿本人麿・山部赤人」の二人を「歌聖」と呼び、「僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰・小野小町・大友黒主」を「六歌仙」と称されることになりますが、あくまでも紀貫之の私見であり、特に後の六人に対する評価は辛いものが多く、筆者個人としては、「歌聖」「六歌仙」という言葉が過大な重みをなしているように思えてならないのです。
いずれにしても、紀貫之によるとされる「仮名序」は、単なる歌集の編纂ということだけでなく、自らの時代の自信を後世に伝えようとの意思が感じられると思うのです。
最期に、仮名序の最終部分を載せさせていただきます。
『 人麿亡くなりにたれど、歌のこととどまれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、真拆の葛(マサキノカヅラ・蔓草の一種)長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも。 』
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古今集は、600首弱覚えて挫折し、源氏和歌に比重を移したので、新古今和歌集の本歌、伊勢物語などを除いてほとんど忘れております。仮名序も数十行掻い摘んで読んだだけで、全文を読んでおりません。
貴blogを更に楽しみにお邪魔致したいと思います。
拙句
野分跡一過の花がぼちぼちと
いつも応援頂きありがとうございます。
貴兄のブログには、いろいろヒントを頂戴しております。
今更という気持ちもありますが、古今和歌集に取り組んでみることにしました。私の場合、和歌そのものを鑑賞することはあまり得意ではありませんので、歌人が中心になると思っています。ただ、古今和歌集の歌人の多くは、なじみが薄い人物ですので、さて、どうなりますか。頑張ってみます。
今年は、特に天候不順のような気がします。くれぐれもご自愛くださいませ。