継子と継母(1) ・ 今昔物語 ( 巻 26-5 )
今は昔、
陸奥の国に権勢と財力を有している家に兄弟がいた。
兄は弟より何事につけ勝っていた。彼はその国の介(スケ・国府の次官)として政務を執り行っていたので、国府の館に常駐していて、自宅にいることは稀であった。自宅は館より百町(10kmほど)ばかり離れていた。通称は太夫介(タイフノスケ)と呼ばれていた。
その大夫介が若い頃、子供がいなかったので自分の財産を譲る者がいないことを残念に思い、ひたすら子供を願っているうちにいつしか年老いてしまった。妻の年も四十を過ぎてしまったことから子供を諦めかけていたが、思いがけず妻が懐妊したのである。
夫婦ともども大喜びしているうちに、月満ちて端正美麗な男の子が生まれた。父母はこの子をとても大切にして、目を離すことなく養育していたが、その母は間もなく死んでしまった。
嘆き悲しむことたいへんなものであったが、どうすることも出来ない。
父の大夫介は、「この子が物心がつき一人前になるまでは、継母は迎えまい」と言って、後妻を娶ろうとしなかった。
また、この大夫介の弟にも子供がいなかったうえ、甥にあたるこの子がとても可愛かったので、「わしもこの子を我が子と思おう」と言うので、兄も、「母がなく、わし一人でこの子を育てているが、多忙のためいつもそばにいてやれないことが気になっていた。お前がわしと同じように可愛がってくれればとてもありがたい」と言って面倒を見させたので、弟はその子を自分の家に引き取って大切に養育した。
こうしているうちに、その子は十一、二歳にもなった。成長するにつれて、容姿が美しい上に性格も良く、わがままは言わず、学問の理解力にも優れていたので、実父の兄も養育している弟も寵愛するうえに、使用人たちもこの子を可愛がりかしずいていた。
さて、そのような日が過ぎていたが、この国のちょっとした家柄の者で、夫に先立たれた女がいた。大夫介が妻を亡くしていることを聞いて、「お子様のお世話がしたい」と仲介人を立てて熱心に申し入れてきた。
大夫介は、女の熱心過ぎる心があさましく怖ろしく感じられたうえに、自分も多忙でほとんど家に居ないので、「妻の必要はない」と聞き入れなかった。しかし女は、「『ぜひとも妻にしていただきたい』と申しますのは、私にも娘が一人おりますが、男の子がいないので、老い先の頼りの為にそのお子様のお世話をしたいと思うからです」と言って、押しかけてきた。
そして、一心にこの子を可愛がったので、大夫介は「怪しいものだ」と思い、しばらくは女を寄せ付けなかったが、独り身の男のもとに夫を喪った女が入り込んで、強引に家事いっさいを取り仕切ったので、いつしか諦めて夫婦の契りを結んだ。
その後は、いっそうこの子を可愛がり、とても良い継母のように見えたので、大夫介も「これなら、もっと早く後妻に迎えればよかった」と思うようになり、家事全般を任せるようになった。
女には、十四、五歳ほどの娘がいたが、女が我が子をたいそう可愛がるので、大夫介もその娘を我が子同様に可愛がるようになった。
こうして、この子が十三歳になった年、継母となった女は夫の財産をすべて自由にできるようになっていたが、同時に、「夫はすでに七十歳になり、今日明日とも知れぬ命だ。この男の子がいなければ、莫大な財産すべてが我が物になるのに」と思う気持ちが強くなっていった。(この辺り、欠文があり、個人的な文章を加えた)
そして、「この男の子を亡き者にしよう」との思いを固めたが、なかなかいい方法が思いつかなかったが、新参の郎等の中に、思慮が浅く、人の言いなりになりそうな男が目についた。そこで、この男を特別に可愛がり、良い物があれば与えたりしたので、男はすっかり喜び、「生きるも死ぬも仰せに従います」と言うようになった。
その男をさらに手なずけているうちに、大夫介が公務で国府の館に詰め切りになり、家に帰らない日が続いた。
継母は、その男を呼び寄せて、「ここには多くの郎等がいるが、思うことがあって、お前に特に目をかけてやっているのを承知しているか」と言うと、その男は、「犬や馬でさえ可愛がってくれる人には尾を振ります。まして人であれば、ありがたいご恩には嬉しく思い、つれない仕打ちには恨めしく思うのが当たり前です。私めへのご恩情の代わりには、生きるも死ぬも仰せに従う覚悟です。その他のことは申すまでもなく、どんなことでも仰せに従い、背くことなどございません」と言った。
継母はこれを聞いて喜び、「私が思っていた通りの頼れる男であった。これからも頼りにしているので、そう心得ておいてほしい」などと念を押し、「今日は吉日だから」と言って、娘の乳母の子にあたる女を娶せた。
この男には本妻がいたが、「出世の手蔓が出来た」と大喜びをした。
( 以下、(2)に続く)
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今は昔、
陸奥の国に権勢と財力を有している家に兄弟がいた。
兄は弟より何事につけ勝っていた。彼はその国の介(スケ・国府の次官)として政務を執り行っていたので、国府の館に常駐していて、自宅にいることは稀であった。自宅は館より百町(10kmほど)ばかり離れていた。通称は太夫介(タイフノスケ)と呼ばれていた。
その大夫介が若い頃、子供がいなかったので自分の財産を譲る者がいないことを残念に思い、ひたすら子供を願っているうちにいつしか年老いてしまった。妻の年も四十を過ぎてしまったことから子供を諦めかけていたが、思いがけず妻が懐妊したのである。
夫婦ともども大喜びしているうちに、月満ちて端正美麗な男の子が生まれた。父母はこの子をとても大切にして、目を離すことなく養育していたが、その母は間もなく死んでしまった。
嘆き悲しむことたいへんなものであったが、どうすることも出来ない。
父の大夫介は、「この子が物心がつき一人前になるまでは、継母は迎えまい」と言って、後妻を娶ろうとしなかった。
また、この大夫介の弟にも子供がいなかったうえ、甥にあたるこの子がとても可愛かったので、「わしもこの子を我が子と思おう」と言うので、兄も、「母がなく、わし一人でこの子を育てているが、多忙のためいつもそばにいてやれないことが気になっていた。お前がわしと同じように可愛がってくれればとてもありがたい」と言って面倒を見させたので、弟はその子を自分の家に引き取って大切に養育した。
こうしているうちに、その子は十一、二歳にもなった。成長するにつれて、容姿が美しい上に性格も良く、わがままは言わず、学問の理解力にも優れていたので、実父の兄も養育している弟も寵愛するうえに、使用人たちもこの子を可愛がりかしずいていた。
さて、そのような日が過ぎていたが、この国のちょっとした家柄の者で、夫に先立たれた女がいた。大夫介が妻を亡くしていることを聞いて、「お子様のお世話がしたい」と仲介人を立てて熱心に申し入れてきた。
大夫介は、女の熱心過ぎる心があさましく怖ろしく感じられたうえに、自分も多忙でほとんど家に居ないので、「妻の必要はない」と聞き入れなかった。しかし女は、「『ぜひとも妻にしていただきたい』と申しますのは、私にも娘が一人おりますが、男の子がいないので、老い先の頼りの為にそのお子様のお世話をしたいと思うからです」と言って、押しかけてきた。
そして、一心にこの子を可愛がったので、大夫介は「怪しいものだ」と思い、しばらくは女を寄せ付けなかったが、独り身の男のもとに夫を喪った女が入り込んで、強引に家事いっさいを取り仕切ったので、いつしか諦めて夫婦の契りを結んだ。
その後は、いっそうこの子を可愛がり、とても良い継母のように見えたので、大夫介も「これなら、もっと早く後妻に迎えればよかった」と思うようになり、家事全般を任せるようになった。
女には、十四、五歳ほどの娘がいたが、女が我が子をたいそう可愛がるので、大夫介もその娘を我が子同様に可愛がるようになった。
こうして、この子が十三歳になった年、継母となった女は夫の財産をすべて自由にできるようになっていたが、同時に、「夫はすでに七十歳になり、今日明日とも知れぬ命だ。この男の子がいなければ、莫大な財産すべてが我が物になるのに」と思う気持ちが強くなっていった。(この辺り、欠文があり、個人的な文章を加えた)
そして、「この男の子を亡き者にしよう」との思いを固めたが、なかなかいい方法が思いつかなかったが、新参の郎等の中に、思慮が浅く、人の言いなりになりそうな男が目についた。そこで、この男を特別に可愛がり、良い物があれば与えたりしたので、男はすっかり喜び、「生きるも死ぬも仰せに従います」と言うようになった。
その男をさらに手なずけているうちに、大夫介が公務で国府の館に詰め切りになり、家に帰らない日が続いた。
継母は、その男を呼び寄せて、「ここには多くの郎等がいるが、思うことがあって、お前に特に目をかけてやっているのを承知しているか」と言うと、その男は、「犬や馬でさえ可愛がってくれる人には尾を振ります。まして人であれば、ありがたいご恩には嬉しく思い、つれない仕打ちには恨めしく思うのが当たり前です。私めへのご恩情の代わりには、生きるも死ぬも仰せに従う覚悟です。その他のことは申すまでもなく、どんなことでも仰せに従い、背くことなどございません」と言った。
継母はこれを聞いて喜び、「私が思っていた通りの頼れる男であった。これからも頼りにしているので、そう心得ておいてほしい」などと念を押し、「今日は吉日だから」と言って、娘の乳母の子にあたる女を娶せた。
この男には本妻がいたが、「出世の手蔓が出来た」と大喜びをした。
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