かつては、話す時の言葉と書く時の言葉は、相当違っていたようです。
江戸時代以前、それも、私たちが古典として見る機会が比較的多い平安時代前後の言葉は、ほぼすべてが書かれた言葉、つまり「書き言葉」であって、残念ながら、当時の人たちが生き生きと話し合ったり、激しく言い争ったり、あるいは愛を語り合う言葉を直接耳にすることは出来ません。もちろん、文献や文学作品などから、「話し言葉」を推定することはある程度可能かもしれませんが、それは極めて限られた部分ではないでしょうか。
明治維新以後も、戦前あたりまでは「書き言葉」つまり文語体は広く使われていたようで、それは教養の高さを示すような一面があったのかもしれません。現在、さすがに「候文」で手紙を書く人はいないでしょうが、俳句や短歌の世界では旧仮名遣い、つまり古い時代の「書き言葉」に近い文字表現がごく普通に使われています。
また、断片的に文語体的な文字遣いをしたり、旧仮名遣いをしたり、あるいは旧字体を用いられている文章を好んで書く人もいるようです。ひにくれ者の私などは、偉ぶっていると感じたり、未だに新字体が書けないのかと思ったりしてしまいます。
かく申す私も、俳句や詩らしきものを書く時には、文語体的な文字使いをしてしまいます。それも、短い作品の中に、新・旧の仮名遣いが混じっているのですから、然るべき御方には笑われていることでしょう。
しかし、どうしても旧仮名遣いの方が上手く表現できるように思われる場面は意外に多い気がします。やたらカタカナを使われる人も、きっと同じで、日本語ではうまく表現できないのでしょうね。
ところで、私たちは、古い時代の「話し言葉」をある程度は分かっているような気がしているのではないでしょうか。原始時代まで遡ると大変ですが、戦国時代や江戸時代の人々は、おそらくこんな感じで会話をしていたのではないかと、漠然と思っている感があります。おそらくその原因や知識のほとんどは、映画やテレビドラマや演劇、あるいは、能狂言などから受けた影響ではないでしょうか。
「書き言葉」も「話し言葉」もその緩急はともかく、絶えず変化をしていますが、現在においては、書くのも話すのも大体同じようになっているようです。特にメールなどは、話し言葉そのままというのが多いようです。
しかし、「話し言葉」と「書き言葉」が全く一緒かと言えば、やはりその間には若干の距離があるようです。
例えば、「アホとか馬鹿」といった言葉や、相手をののしる下品すぎるような言葉は、「話し言葉」としては勢いで使ってしまうことはあっても、「書き言葉」として使われることはそう多くはないはずです。同じように、「愛しています」とか、「とても好きです」などという言葉は、「書き言葉」としては比較的使いやすいですが、「話し言葉」となれば、相当の勇気と、年齢制限があるような気がします。
折から、年賀状の印刷の案内などを目にするようになりました。虚礼に過ぎないという意見もあるようですが、ご無沙汰の旧友や知人に、一年に一度の挨拶も悪くはないようにも思われます。
そうとはいえ、年賀状を仕上げるのは、毎年のことながらなかなか気の重いものです。しかし、「話し言葉」ではない文章を、たまには書いてみるのも(たとえ印刷であっても)いいことではないでしょうか。
( 2016.10.27 )
江戸時代以前、それも、私たちが古典として見る機会が比較的多い平安時代前後の言葉は、ほぼすべてが書かれた言葉、つまり「書き言葉」であって、残念ながら、当時の人たちが生き生きと話し合ったり、激しく言い争ったり、あるいは愛を語り合う言葉を直接耳にすることは出来ません。もちろん、文献や文学作品などから、「話し言葉」を推定することはある程度可能かもしれませんが、それは極めて限られた部分ではないでしょうか。
明治維新以後も、戦前あたりまでは「書き言葉」つまり文語体は広く使われていたようで、それは教養の高さを示すような一面があったのかもしれません。現在、さすがに「候文」で手紙を書く人はいないでしょうが、俳句や短歌の世界では旧仮名遣い、つまり古い時代の「書き言葉」に近い文字表現がごく普通に使われています。
また、断片的に文語体的な文字遣いをしたり、旧仮名遣いをしたり、あるいは旧字体を用いられている文章を好んで書く人もいるようです。ひにくれ者の私などは、偉ぶっていると感じたり、未だに新字体が書けないのかと思ったりしてしまいます。
かく申す私も、俳句や詩らしきものを書く時には、文語体的な文字使いをしてしまいます。それも、短い作品の中に、新・旧の仮名遣いが混じっているのですから、然るべき御方には笑われていることでしょう。
しかし、どうしても旧仮名遣いの方が上手く表現できるように思われる場面は意外に多い気がします。やたらカタカナを使われる人も、きっと同じで、日本語ではうまく表現できないのでしょうね。
ところで、私たちは、古い時代の「話し言葉」をある程度は分かっているような気がしているのではないでしょうか。原始時代まで遡ると大変ですが、戦国時代や江戸時代の人々は、おそらくこんな感じで会話をしていたのではないかと、漠然と思っている感があります。おそらくその原因や知識のほとんどは、映画やテレビドラマや演劇、あるいは、能狂言などから受けた影響ではないでしょうか。
「書き言葉」も「話し言葉」もその緩急はともかく、絶えず変化をしていますが、現在においては、書くのも話すのも大体同じようになっているようです。特にメールなどは、話し言葉そのままというのが多いようです。
しかし、「話し言葉」と「書き言葉」が全く一緒かと言えば、やはりその間には若干の距離があるようです。
例えば、「アホとか馬鹿」といった言葉や、相手をののしる下品すぎるような言葉は、「話し言葉」としては勢いで使ってしまうことはあっても、「書き言葉」として使われることはそう多くはないはずです。同じように、「愛しています」とか、「とても好きです」などという言葉は、「書き言葉」としては比較的使いやすいですが、「話し言葉」となれば、相当の勇気と、年齢制限があるような気がします。
折から、年賀状の印刷の案内などを目にするようになりました。虚礼に過ぎないという意見もあるようですが、ご無沙汰の旧友や知人に、一年に一度の挨拶も悪くはないようにも思われます。
そうとはいえ、年賀状を仕上げるのは、毎年のことながらなかなか気の重いものです。しかし、「話し言葉」ではない文章を、たまには書いてみるのも(たとえ印刷であっても)いいことではないでしょうか。
( 2016.10.27 )
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