『 五節の舞 ・ 望月の宴 ( 31 ) 』
摂政殿(兼家)は、今年六十歳におなりなので、この春、算賀(サンガ・四十歳から始めて十年ごとに行う長寿を祝う儀式。)を催されるということで準備を進めておられましたが、数々の支度を間に合わせることが出来ず、十月に行うということになりました。
そして、これということもなく月日が経ち、東三条院でにおいて御賀が行われました。
御屏風には様々なすばらしい歌が集められていますが、どことなく落ち着かぬままに、書きとどめぬままにされておりました。ご一家の君達(公達)は皆様が舞人になられましたが、なんともすばらしいものでございました。だって、同じ君達と申し上げても、道隆殿、道兼殿、そして道長殿といったそうそうたる方々なのですから。
帝(一条天皇)も行幸なさり、東宮(居貞親王)もご臨席という晴れがましい祝賀となりました。兼家殿の家司たちも皆さま加階の栄に浴しましたが、中でも兼家殿が特に目をかけておられる、有国殿は左中弁に、惟仲殿は右中弁へと昇進なさいましたが、お二人とも、世間の評判も学才も優れている方々なので、まことにおめでたいことでございました。
こうしたことがあって、この月も終ったので、五節などを殿上人は早くその日を迎えたいと待ち遠しく思っていたが、御即位の年は然るべき行事が行われるので目立たないが、今年の五節だけはその有様を帝もつぶさにご覧になり、また人々も期待していたが、四条の宮(頼忠の娘遵子)の奉る五節の舞姫はじめ、左大臣殿(源雅信)の左兵衛督時仲の君や、さらには受領たちも舞姫を奉る。
御前の試み(天皇が舞姫を清涼殿に召してご覧になる儀式。)の夜などは、帝はまだ年若でいらっしゃるが、后宮(一条天皇生母の詮子)が同席なさるので、清涼殿の二間の御簾の内の気配や、大勢の人がつめかけている様子などは、ふつうの舞姫たちで、少しでも物事の判断のつく者であれば、そのまま倒れてしまうほど恥ずかしくて、赤面してしまうだろうと思われた。
そうした中で、四条の宮の奉った舞姫は格別であった。何やかやと、思い思いに女房たちは言い騒いで、またの日の御覧(舞姫の介添えをする童女と下仕えを清涼殿に召して、天皇が御覧になる儀式。)に、童女、下仕えなどの様子も、どれもこれも誰が引けを取るものかと思うほど、それぞれに趣向を凝らしていて、いずれも捨てがたくおぼしめして品定めなさる。
五節も終ってしまうと、賀茂の臨時の祭が二十日過ぎに催された。
試楽(シガク・臨時祭の二日前に、清涼殿の東庭で行われる舞楽の試演。)も趣深く終り、祭の当日の還遊(カエリアソビ・使者以下が賀茂社から内裏に帰参し、清涼殿の東庭で宴が設けられ神楽が行われる。)が御前で行われるとき、摂政殿(兼家)をはじめとして、然るべき人々や殿上人が一人残らず伺候されている。
この舞人の中に、六位の者が二人いたが、蔵人左衛門尉上の判官という源兼澄(ミナモトノカネズミ・光孝天皇の四世にあたる。)が舞人として賜った杯を手にしたのを摂政殿がご覧になって、「まずは祝いの和歌をお詠み申せ」と仰せになるままに、「宵の間に」と声を挙げて申し上げると、「おもしろい、おもしろい、先を先を」と殿方たちがはやし立てると、「君をし祈りおきつれば」と申し上げた。
大殿(兼家)はたいそう興じられて、「遅いぞ、遅いぞ」と仰せられると、「まだ夜深くも思はゆるかな」と申し上げたので、たいそう感心されてお褒めになり、お召しになっていた衵(アコメ)を脱いでお与えらなった。
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* 源兼澄が詠んだ和歌は、「 宵のうちに わが君のご長寿を お祈り申し上げておきましたので これから先のご長寿は 限りないと思われます 」といった意味。
* 「六位の者」・・六位は地下人であるが、蔵人を兼ねている者は昇殿が許された。また、源兼澄の官職の「左衛門尉上」の「上」は殿上を意味している。
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