『 九条流の繁栄 ・ 望月の宴 ( 32 ) 』
世の中は、五節や臨時の祭さえ過ぎてしまうと、残りの月日がまだ残っているという感じがまるでない。
十二月の十九日になると、御仏名(ゴブツミョウ・十二月十九日から三日間、年内の罪障を懺悔し、過去現在未来の三千仏の御名を唱え、罪滅生善を祈願する儀式。)ということで、地獄絵の御屏風などを取り出して設えているのも、それに目がとまってしみじみとした思いになるが、そうした折、雪がたいそう降ってきたので、「送り迎ふ」と古人が詠み残している歌も、まことにその通りだと思っていると、殿上人の菩提を求めて念仏を唱える声が、かえって生への執着のように聞こえてしまう。
その声は、宮中ばかりでなく、次々の宮の御所でも声高に唱えられている。
(古人の歌とは、平兼盛作「数ふれば わが身につもる 年月を 送り迎ふと なにいそぐらむ」)
月末になると、追儺(ツイナ・大晦日の夜、内裏において悪鬼を払う儀式。)とて大騒ぎである。帝はまことに年若でおわしますので、振鼓(フリヅツミ・追儺の時、童子が持ち歩く道具。でんでん太鼓のような物らしい。)などをしてご覧に入れると、君達(公達)もおもしろがっている。
こうして年号が変わり、永祚元年(989)ということになり、正月には院(円融上皇)の御所に行幸が行われた。
院も入道なさったので、円融院(円融寺とも。竜安寺の近くにあったらしい。)にお住まいなので、その御所に行幸なさった。
恒例の作法通りに行われ、院司たちに加階など喜び事が様々に行われ、時は過ぎていった。
こうして、大殿(兼家)は、十五の宮(醍醐天皇の皇子、盛明親王。986年に薨去。)がお住みになっていた二条院(東二条院、京極院とも。後の法興院)を立派に修築なさった。もともとご立派な邸宅であっただけに、お心のままに存分にお手をかけられたので、ますます目も及ばぬほどにすばらしくなっていくのをご覧になられると、ますます熱心になられ、夜も昼もと工事を急がされた。
明年正月に、大饗(毎年正月に行われる恒例行事。大臣が他の大臣や殿上人などを招いて行う饗宴。もともと私宴であったが、朝廷からの勅使も遣わされ、公事に準ずる性格を持っていた。)を催す予定だと仰せられて、工事を急がせなさっていたのである。
ところで、九条殿(藤原師輔・兼家らの父。)には、男君方が十一人、女君方は六人いらっしゃいます。
その中でも、亡き后宮(キサイノミヤ・安子)の御子孫方は今に至るまで帝でいらっしゃいますのです。と申し上げますのは、第六十三代冷泉天皇と第六十四代円融天皇は御子であり、第六十五代花山天皇と第六十六代一条天皇は御孫であられるのですから。
尚侍(ナイシノカミ・内侍司の長官、登子)や、六の女御(冷泉院女御、怤子)という方々は、御子孫にこれという御方は見当たらない。
男君たちでは、太郎の一条の摂政と申される方(伊尹)は、その御子孫方は際だったご様子には見えません。もっとも、花山院はこの摂政の御孫であられますが、すでに出家なさっておいででございます。
また、入道の中納言殿(義懐)などは、花山院が退位にいたる騒動によりご出家されたのも嘆かわしいことでございます。
女君も、九の宮までいらっしゃいましたが、そのお方だけが在生でいらっしゃいます。
堀川の左大将殿(朝光・兼通の子)は、ただ今のところ、昔も今も代わらず栄えていらっしゃいます。広幡の中納言殿(顕光・兼通の子)は、これといったご活躍は見当たりません。
この他の君達方は、まだ御位も浅くいらっしゃいます。
その中で、やはり、ただ今の大殿(兼家)は、三郎君(三男)でいらっしゃいますが、目下のところこの殿こそ前途洋々のご様子で、頼もしい限りでございます。
一条の右大臣殿(為光)は、九郎でいらっしゃいますが、このように大殿がたいそう栄えていらっしゃる中においても、なお輝いておいでなのは、格別優れておいでだからでございましょう。
このように、九条殿のご一統は様々ではございますが、ただ今は、御位も他の方々に比べまだ低く、御年などもご兄弟の中で最年少であられますが、どういうところがこれほど期待を集めているのでしょうか、世間の人々は、この三位殿(道長)を同じご一家の君達の中でも、格別の御方だとお噂申し上げているのでございます。
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