サッカーW杯カタール大会は、わが日本チームの活躍もあって、国内でも大変盛り上がりました。「三苫の1ミリ」などという、アニメにしてもやり過ぎではないかと言うほど劇的なシーンもあり、わずか4試合で、わが国内には にわかファンが膨れ上がりました。
大会は、いよいよベスト4の激突になっていますが、サッカーの持つ力は驚くばかりでした。
オリンピックに比べますと、本大会に参加する国数は圧倒的に少ないですが、テレビで報じられる部分からだけでも、国家、人種、言語が実に多様で、世界は広く、すべての国々が平安に接し合うことは、そうそう簡単なことではないと考えてしまいました。
同時に、言語が違う人々同士でも互いに意志を交換している姿に感動しましたが、また同時に、世界中とまではいかなくとも、例えば、EU域内を統一言語に出来るか、となりますと、これはなかなか大変でしょう。技術的とか能力面と言ったことではなく、言語は文化に直結しており、国民や民族の誇りといった面とも関係してきますから、おそらく、話題にも上らなかったことでしょう。
しかし、それならばこそ、幾つもの国と国境を接し、往来が激しくなるに連れて、自国語だけでは不便が多くなり、複数語を聞き取り語れる人が多くなっていきます。
わが国においても、会社内では英語を使うという企業があるくらいで、複数の言葉を自由に使えないようでは海外での活躍は困難なようです。
日本語さえ危なっかしい身としましては、住みにくい時代になってきました。
言葉というものは、時代と共に少しずつ変化していくもののようです。わずか二百年ほど前の江戸時代後期の言葉と比べてみても、話し言葉も書き言葉も、かなり変化してきているはずです。
私は今「今昔物語」を勉強していますが、その中の言葉で、そのまま使って良いのかどうか迷う言葉に時々出合います。いわゆる放送禁止用語に当たるような言葉です。差別的であったり生々しすぎる描写の言葉もあります。
確かに、そうした言葉がまかり通る社会はどうかとは思うのですが、人々が使わなくなって自然に消えていく物はともかく、人為的に、それも強圧的に消し去っていくことに、どうも違和感のようなものを感じてしまうのです。
今回のサッカーW杯において、「ガンバレ、ガンバレ」と応援された方もいらっしゃると思うのですが、この「ガンバレ」「頑張る」という言葉も、除け者にされる懸念がある言葉です。
私はこの言葉がとても好きなのですが、「疾病や精神的な面で弱っている人に対して、『頑張れ』という言葉は絶対に避けなくてはならない」という方々がいらっしゃって、ある時期テレビなどでも、こうした発言をよく目にしました。最近は少なくなっているようですが、やはり根強くこうした意見は存在しています。
確かに、ハンディを持っている人が懸命に努力しているのに、さらに「もっともっと努力せよ」といった意味で「頑張れ」というのは問題です。しかしそれは、「頑張れ」に限ったことではなく、避けるべき言葉は他にもあるはずです。
私たちが日常生活で、「頑張ってね」という場合、「応援しているよ」とか、「気楽にね」と言った程度で使うことも多く、時には、ほとんど意味を持たず、「またね」あるいは「さよなら」などの代わりに使われることさえあるはずです。
『頑張れ』。このすばらしい言葉が、除け者にされることなく、適正な場所で、思いやりをこめた形で、あるいは空気のような存在として使われ続けることを切に祈っています。
『頑張れ』よ、頑張れ!!
( 2022.12.13 )
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