麗しの枕草子物語
哀れなるかな翁丸
帝のお側近くで飼われている御猫は爵位をいただいておりまして、「命婦のおとど」と名付けられ、たいそう可愛がられておりました。
ある日のこと、かの御猫は縁側で体を長々と伸ばして気持ちよさそうに寝ておりました。ただ、その格好があまりにもだらしないものですから、世話役の女官が、
「何とまあ、お行儀の悪い。お部屋に入りなさい」
と声をかけましたが、御猫は動く気配さえも見せません。
世話役の女官は少しばかりおどかそうと思い、庭にいる大型犬の翁丸を呼びました。
「翁丸はどこにいるの。命婦のおとどに噛みついておやり」
と命じました。
いつものように庭にいた翁丸は、もともと忠実な性格ですから、女官の命令に直ちに反応して、その逞しい体を揺するようにして御猫に向かって走りかかりました。
御猫は大変驚き、御簾の内に走り込みました。
ちょうどそこには、帝が朝食の御膳についておりましたが、飛び込んできた御猫にたいそう驚かれました。そして、怖がっている御猫を懐に入れてやり、控えの者たちを呼びました。
直ちに、控えておりました蔵人たちが駆けつけましたので、
「あの乱暴者の翁丸を打ち懲らしめて、犬島へ流してしまえ。今すぐにだ」
と命じられました。
翁丸は、蔵人や滝口の武者たちに追い回され、散々に打ち懲らしめられたうえで追い払われてしまいました。
御猫の世話役の女官も謹慎することにまでなりました。
「可哀そうに、あんなに堂々と庭を歩きまわっていたのに」
と女官たちは同情し、
「三月三日には、桃の花を頭に飾り、腰には桜の花を差してもらって見事な晴れ姿を見せていたのに、こんなことになるなんて思いもしなかったことでしょうに」
と、わたしも哀れでなりませんでした。
「中宮さまのお食事時には、お下がりをいただこうとて必ず庭先に控えていたのに、寂しいことです」
などと言いながら三、四日が経ちましたが、そのお昼頃、激しく啼く犬の声がするので、どうしたのだろうと思っていますと、そのあたりの犬たちもその声の方に向かって走っていっています。
やがて、下級の女官が走ってきて、
「大変なことです。犬を蔵人二人がかりで打っているのですよ。あれでは死んでしまいます。何でも、追放した犬が帰ってきてしまったので、懲らしめているのだそうです」
と言うのです。
それではあの悲しげな啼き声は翁丸に違いありません。急いでその女官を止めに行かせますと、やがて、啼き声がしなくなりました。
しかし、戻ってきた女官は、
「死んでしまったので、内裏の外に捨ててしまったようです」
と、報告するのでした。
「ああ、可哀そうなことをしてしまった」と、私たちは悲しんでおりましたが、その夕方に、体中が腫れあがった汚らしい犬がよろよろと庭先を歩いているので、
「翁丸ではないかしら。近頃あんな犬は見たことがありませんよ」
とわたしが言いますと、近くに仕えていた女官たちも「翁丸」「翁丸」と呼びかけました。
しかし、その犬は呼びかけに見向きもしないのです。
「あれは翁丸だ」とか、「いや違うみたいだ」とわたしたちが話していますと、中宮さまが、
「右近を呼びなさい。右近なら翁丸をよく知っていますよ」
と言われました。
早速、右近内侍を召し出して、「あれは翁丸か」と中宮さまがお尋ねになられましたが、右近にもなかなか判別がつかないようなのです。
「とても似てはいますが、翁丸より憎らしげな感じです。それに、わたしが呼んでも寄ってもきません。翁丸は『打ち殺して棄てた』と報告されています。蔵人二人に打ち懲らしめられたのですから、とても生きてはいないでしょう」
と返答されましたので、中宮さまは、とても悲しそうでございました。
暗くなってから食べ物を与えたのですが、食べようともしないので、やはり右近の言う通りかもしれないということになりました。
その翌朝のことです。
中宮さまが御髪などを整えています時、私は御鏡をお持ちしておりましたが、いつも翁丸が坐っていた柱の基にあの汚らしい犬が坐っているのです。
「ああ、昨日は可哀そうなことをしてしまった。死んでしまったとなれば、この次は何に生まれ変わってくるのかしら。それにしても、打たれている時は辛かったことでしょう」などと考えていますと、その坐っていた犬が、ぶるぶると体を震わせ、涙を流し続けるのです。
「それでは、やはりお前は翁丸なのですね。昨日は、追放の身であることを知っていて、名乗ることが出来なかったのですね」と思いますと、その心根が哀れでなりません。
わたしは、御鏡を投げ出すようにして、翁丸に声をかけました。
翁丸は身を伏せて、応えるように激しく啼くのです。
中宮さまも、安心したかのように微笑んでいます。
帝も姿を見せられ、「犬でも、そのような神妙な気持ちを持っているのだなあ」と感心されていました。
わたしは、「はやく傷の手当てをさせなくては」などと翁丸の世話を始めますと、
「とうとう、あなたが翁丸贔屓であることが露見してしまいましたね」
と、女房たちが笑うのです。
やがて、帝のお怒りも解けて、翁丸は以前の姿を取り戻すことが出来たのです。
(第六段 上にさぶらう・・、より )
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