『 犬も歩けば棒にあたる 』
最近の子供たちは「いろはカルタ」で遊ぶことなどあるのでしょうか。
コンピューターゲームが年々高度化され、大人がとてもついていけないレベルのものを小学生が軽々と挑戦しています。
ゲームとしてのスリルや複雑さは「いろはカルタ」など足もとにも及びません。それでも、幼い子供の場合はお正月などに少しは触れているのでしょうか。
もっとも、何十年も前に幼年期を終えた私などでも「いろはカルタ」で遊んだという記憶はそれほど残っていません。たいていの家には一組ぐらいは持っていたようですし、雑誌の付録などにもあったような記憶があります。
おそらく、子供といっても、「いろはカルタ」で遊ぶのは、親とか兄や姉に遊んでもらう年代のようです。
私のおぼろげな記憶でも、子供たちだけで遊ぶようになると、もう「いろはカルタ」は卒業していたように思うのです。
ところが、誰かに遊んでもらっていた頃の私は、ひらがなが満足に書けなかったと思うのです。小学校に入学した時、何とか自分の名前だけは書ける程度だったのですが、私が特別劣っていたということではなく、その頃はそれで平均程度だったのです。
もちろん、書けることと読めることとは時間差がありますから、「いろはカルタ」で遊ぶ程度には読めていたのかもしれません。
それにしても、その程度の力で覚えたカルタの内容を、今でもかなり克明に覚えているのですから、幼年期の記憶力というものは凄いものだと思います。
い・・・犬も歩けば 棒にあたる
ろ・・・論より証拠
は・・・花よりだんご
に・・・憎まれっ子 世にはばかる
ほ・・・骨折り損の くたびれ儲け
と・・・年寄りの冷や水
このように、今でも少し考えるだけで次々と浮かんできます。
それも言葉だけでなく、絵札に書かれていた構図がおぼろげにですが思い出されるものが少なくありません。
札に書かれている言葉は、地方によって少しずつ違うようですが、いずれも「ことわざ」と呼ばれるような内容のものばかりです。
「いろはカルタ」が、どのような過程を経て幼い子供たちの遊び道具になったのか調べたことがないのですが、どう考えても最初はもっと年齢の高い人のためのものだったのが、内容を変えないまま幼い子供用になったように思われるのです。
それにしても、せいぜい小学校の低学年くらいまでの子供が遊ぶにしては、難しい内容だとは思いませんか。
先に書きました七句をみましても、子供には荷の重い内容です。
例えば、「論より証拠」などという言葉を子供たちはどのように受け取っているのでしょうか。
「憎まれっ子 世にはばかる」などは川柳にしたいような皮肉を感じますし、「骨折り損の くたびれ儲け」となれば、子供たちにはあまり覚えてもらいたくないような教訓だと思うのです。
さらに「年寄りの冷や水」となれば、今では大人でも意味がよく分かりません。
この他のものを思い浮かべましても、味わい深いというか、意味深長というか、いずれも言葉が持つ表面的な意味だけで理解してはいけないようなものばかりなのです。
もう少し例をあげてみましょう。
「われ鍋に とじ蓋」というのがありますが、最近はあまり使われなくなったことわざだと思います。どんな人にも釣り合う配偶者はいるものだ、あるいは、配偶者は釣り合いのとれる人がよい、といった意味ですが、これなどは、人生の酸いも甘いも知りつくした人だけが言える言葉のように思うのです。
「頭隠して 尻隠さず」なども面白い句ですが、実生活のいろいろな場面に当てはめて考えますと、可笑しいという句ではないと思えてくるのです。
私たちは生きてゆくうえで、頭だけを隠して難局を凌いだ経験が誰にでも一度や二度はあるのではないでしょうか。
私自身のことを考えてみましても、これまでの生活の中で意識的であったものだけでも、嘘をついたり隠しごとをすることでピンチを逃れたことが何度もありました。そのたびに、嘘も方便とか、社会生活上の必要悪だとか、潤滑油として必要なのだとか、いろいろ理由をつけて自分自身を納得させてきました。
さらに、自己認識さえないままに小細工したこととなりますと、数え切れないほどになるように思うのです。生きてゆくことに精一杯だったとしても、今になって考えてみますと、その多くが「頭隠して 尻隠さず」であったように思うのです。
賢く立ち回ったように思っていたことが、心ある人からみれば、頭だけ隠して事足れりと、こそこそ動き回っている姿に見えていたのだと思えてなりません。いまさら修正することなどできませんが、ほろ苦い塊となって心の奥に澱んでいます。
さて、前置きが長くなりましたが本題に戻りましょう。
「犬も歩けば 棒にあたる」という掲題の句は、「いろは」の最初にあたることや親しみやすい題材であることから、「いろはカルタ」の中で一番知られているものではないでしょうか。
この句、というよりことわざという方が適切だと思うのですが、このことわざは二つの意味を持っているようです。
一つは、出しゃばると禍に合う、物事を行う人は時には禍に合うことがある、といった意味です。もう一つは、動けば思わぬ幸運に合うこともある、といった意味です。
中には、行動すると禍に合うこともあるし幸いに合うこともある、というように両方の意味を持たせて説明している本もありました。
広辞苑には、禍にあうという方が本来の意味と思われるが、幸運にあうという意味の方の解釈が広く行われる、とあります。
あなたは、このことわざに対して直観的にどちらだと感じますか。
いえ、その答えによって性格占いができるわけではありません。
歩いている犬の様子や、見ている人の心理状態によってこの言葉の意味が変わるのではないかと思うのですが、殆どの人は最初に覚えたものが身についてしまっているようです。
ことわざに限らず、幼い頃に覚えたことはいつまでも残るもののようです。
実は、私たちがこのことわざから学ばねばならないことは、「禍に出合う」と「幸運に出合う」という正反対の意味を持っているということだと思うのです。
「犬が歩く」というありふれた光景に対して、私たちは、人ごとに全く異なる意味を感じ取っているのです。
私たちの日常には、自分の思いや苦労がうまく伝わらないことの繰り返しのように思う時があります。努力や誠意が報われないことに苛立つことも少なくありません。
しかし、私たちは、一人一人が異なった価値観を持って生きているのだとすれば、思いや願いがストレートに伝わらないのが普通だということではないでしょうか。
犬が歩いている姿を見ても、受け取り方が二分されるのが人間というものなのですから。
どうやら「いろはカルタ」は、人生の過半を生き、何度かの失意や絶望を経験し、裏切ったり裏切られたりの泥を被ったあとで、しみじみと味わってみるもののようです。
*****��������� *****��������� *****
�
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます