都市と楽しみ

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堤清二 罪と業(児玉博):康二朗、清二、義明のトライアングルと早稲田と東大と母の歌集

2016-11-09 04:19:13 | 世情

 西武鉄道というとコクドが株を押さえていた同族会社が特色で、早稲田になじみ深い高田馬場駅と突貫工事で1952年に西武新宿まで延伸したが新宿駅とはつながなかったのは「汚穢電車」だったからという都市伝説があった。本当は、マイ・シティ2階に受けのホームが用意されていた。( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8D%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E6%96%B0%E5%AE%BF )

 康二朗は早稲田大学政経学部かつ雄弁会の在学中から経済人として貪欲に動き「ピストル堤」の発祥。しかし、ものまねや裏切りもあり失敗続きで、1915年の中軽井沢の取得が発展の端緒。オーナー会社を維持するためのコクドもこの頃設立。さらに大泉学園や国立・小平学園都市開発は都市計画に残るが、その他には「ピストル堤」らしい強引な発展の。「小林一三モデル」で清二によると最後は「地主」になり下がったとの感想。1964年に亡くなると義明と清二の二人への事業譲渡と二人の反目が危険な火種に。

 康二朗は跡継ぎの義明に帝王学をスパルタ方式でしこんだ。義明は早稲田大学商学部に入学し父と同じ柔道部に入り(名義だけだと思うが)、さらに早稲田大学観光学会のサークルを立ち上げる。(卒論の大磯ロングビーチが事業化された)基幹の鉄道とホテルを承継するが清二によると「凡庸な人」。康二朗路線を守り抜いたが、オーナー会社が逆に弱みとなった。帝王だったが、いまや引退とは「会社の仕組み(コンプライアンス)で負けた」。

清二は康二朗と内縁関係にあった母 操が三番目の妻となり、邦子とともに3人貧乏な生活から麻布の米閣荘に移る。歌人である最愛の母の操(「大伴道子 名義」)からの影響で文学に目覚め「辻井喬」の二足の草鞋に。天才肌で自信がありすぎ、西武の落日は自分が身を引いたから。

 義明と違い、派生事業の破産状態だった西武百貨店を承継した。東大人脈も生かして渋谷に西武百貨店とパルコを進出。さらに西友ストアも。セゾン・グループとして一世を風靡した。その後、西洋環境開発により、ホテル西洋銀座をオープンと自らの能力で切り開く。サンシャイン60の立上げにもかかわるが資金不足で義明の事業参加となる、妹邦子のカジノ危機も義明が援助したという確執がある。

結局は破綻するのは義明と同じだが「時流の変化(バブル以降)に負けた」。天才も「策士策に溺れる」で新しい時代は作れたがパラダイム・シフトは読めなかったのだろう。(本人は認めていないがホテル西洋銀座の閉店で感じたはずだ)

個人的には、セゾン文化を感じたのは月間アクロスくらいだった。どうも「おいしい生活」など軽薄なイメージを感じていた。また西洋環境開発の桂坂も疑問だった。

 まとめると:

①義明

・父に従う、早稲田、父に忠実で真面目に観光と柔道を勉強、帝王としての事業承継、ワンマン

②清二

・母を慕う、東大、父への反抗で共産傾斜、文学センスがある開拓者、天才

の対比と2本の「人生の縄」における絡みと破断がある、どっちもあまり楽しくなさそうな感じだ

コメント
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