旅館ではない席貸(遊郭の妓楼まがい、東京のもとの待合(1948年以降は「(料理を作らず、仕出しを頼む)料亭」に相当)が1930年ごろ上下木屋町、祇園の東にある下河原と安井にあった。一種の茶屋であり、宴会や泊りもできるという「風俗業」であった。
上下木屋町は連続する花街の一部だった。北から東三本木(旧花街)、上木屋町(席貸しで片側町(鴨川の河岸))、先斗町、西石垣(さいせき)、下木屋町(席貸しで片側町(鴨川の河岸))が鴨川西岸、高瀬川東に細長く続く→上下木屋町は片側町では騒ぎ放題、対岸からしか見えないという好立地。
雇仲居は「酌婦」で素人風(→関東の飯盛り女の移入か)、漢字は新研芸妓(新妍(姸)芸妓)、京都名物として真葛ヶ原(現円山公園)の男配膳に対する女配膳で下河原(八坂神社の南門前、高台寺あたり)の(配膳)山猫、雇仲居倶楽部も四条高倉はじめ各所に、京名物ともある→席貸での「エロ」とある。芸妓より安くて気安い美人もいる(花名刺持つ)
つまりはお泊り宴会のできる席貸で、本格的な芸妓ではなく、素人じみた酌婦相手にいろいろな「エロ」ができるというのが売りのようだ。当時は祇園よりも高いようだ。
下河原も祇園閣と音楽堂で道には自動車が多くなり風情がなくなり席貸ゾーンで一世を風靡した。検番もあった。
この雇仲居と席貸が衰退し、その跡がラブ・ホテルになった。現在でも安井に多いのはそのため。つまりは、金で雇うから恋愛への進化だ。
著者は「貸席」の研究が好みのようだ。
その他、知見は:
・四条河原町の夕涼みは中津でしていた。その後、河床の掘削と河川幅減少で両側から張り出しの「床」が発生→明治期以降の土木工事の検証が薄い、高水方式への転換がある、1935年の大水害以降、鴨川改修が行われた( http://www.pref.kyoto.jp/kamogawa/documents/1175491647483.pdf )
・「かにかくに祇園はこひし寐るときも枕の下を水のながるる」で有名な吉井勇の泊まった「大友」は第二次世界大戦中の建物疎開(防火帯整備)のため取壊し、現在は白川南通になり観光客が白川を眺める
・第二次世界大戦前までは祇園で雑魚寝のお泊り夜更かしができた
面白いが、まとまりや、年次管理に不満がある。