前回の記事で、
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
テストや作業課題で測れるような表面的な『ものさし』ではなくて、
別の尺度のもっと微細な変化を測ることができる『ものさし』があると便利なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と書きました。
これについて もう少しくわしく説明させていただきますね。
幼い子たちが夢中になる遊びは、たいてい
『今よりもっと難しい概念を理解できる状態』にステップアップする
という目的を含んでいます。
大人にとって無意味に見えても、
子どもが夢中になって何度も何度もやりたがることは、
それはその子が『現在、一番必要としている能力』を得るのに
ピッタリな手段である場合が多いのです。
小さなおもちゃを危なっかしい場所に置いて、
「落ちるよ、落ちるよ」とつついてみせると、
次に起こることを期待して、
目を皿のように丸くして見ていて、おもちゃが落ちたとたん、
キャッキャッと笑い転げる時期の子がいます。
どうしてそんなにも面白いのかと首をかしげたくなるほど、
何度やっても大受け。
グラグラするところに物を乗せていって、「あっ、崩れる崩れる!怖い怖い!」と言ったり、
水の入ったコップを傾けて、「こぼれるこぼれる!たいへんたいへん!」と言うと、吸い寄せられるように集中してジィッーと見つめていて、
崩れたりこぼれたりしたとたん、
テンションが上りすぎてピョンピョン飛び跳ねながら笑い転げて、
「もう1回!もう一回!」と大騒ぎする時期の子たちです。
子どもはみんなそんなもの……というとそうではなくて、
その時期の前の子どもたちは、これから何かが起こりそうというシーンを息を詰めて見つめたりしないし、
その時期の後の子も、もう少し複雑なユーモアの方に強く反応するのです。
なら、この「落ちるよ落ちるよ」が大好きな子たちとはどんな時期の子なのかと思って観察するうちに、
『想像力が未発達で、推測したり推理したりする力を伸ばす活動に
積極的な時期の子たちが多い』
ということに気づきました。
「次にどうなるのかな?」と推理して、その通りの結果を目の当たりにするのが楽しくてたまらない時期の子には、
少しずつ推理のハードルをあげていって、「どうなるかな?」と問いかけると、とても喜ぶし、想像力を使って考えるようになっていきます。
自閉症スペクトラムの子たちの中には、
この「落ちるよ落ちるよ」的な遊び(輪ゴムを思い切り伸ばして「怖い怖い」というのもあります)に、しつこくこだわって何度もやりたがる子がいます。
たいてい、「やめなさい」と注意されるか、無視されて……それでおしまい……
となりがちです。
でも、その遊びの世界に大人が近づいていって、それをよりレベル高い推理に洗練させていくと、
算数の問題で、変化した後にどんな答えになるのか当てる
といったことにも興味を示すようになります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遊びではないのですが、
子どもにお菓子をあげると、
すかさず「もっと」と要求するようになる時期がありますよね。
大人からひとつ余分にもらうと自分の分が『増える』ということが
感覚的にわかりかける時期の子が、ひとさし指を立てて、「いち!もういっこ!」とやたらうるさいという印象があります。
このように『増える』ことがわかりはじめる時期に、
小物を使って、「1+1=2 2+1=3 3+1=4 」言いながら、
足し算のルールを目で見える形で表現したり、
ままごとで、食べ物を交換したり、袋や皿に入れていったりしながら、
数の増減を体感する遊びを喜ぶようになってきます。
ハンディーキャップを持った子たちから、
「もっと」という要求や、
「たくさんある方がいい」と選ぶ様子が見られるとき、
(ちょっとややこしい しつこさ が出てきたな~と言うとき)
そうした行動の背後には
「子どもの中に新しい概念を理解する準備が進んでいるのかも」
という視点で眺めると、
その時期に適した学習課題が見つかるかもしれません。
発達が気になる子に対しても、そうでない子に対しても、
やるべき課題のレールを敷いて、
子どもに教育しようと構えると、
親も子も苦しくなってくるものです。
そんなときは、子どもの今の姿の中から、課題を見つけるようにすると、
学ぶことが楽しくて実りあるものになっていきますよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
テストや作業課題で測れるような表面的な『ものさし』ではなくて、
別の尺度のもっと微細な変化を測ることができる『ものさし』があると便利なのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と書きました。
これについて もう少しくわしく説明させていただきますね。
幼い子たちが夢中になる遊びは、たいてい
『今よりもっと難しい概念を理解できる状態』にステップアップする
という目的を含んでいます。
大人にとって無意味に見えても、
子どもが夢中になって何度も何度もやりたがることは、
それはその子が『現在、一番必要としている能力』を得るのに
ピッタリな手段である場合が多いのです。
小さなおもちゃを危なっかしい場所に置いて、
「落ちるよ、落ちるよ」とつついてみせると、
次に起こることを期待して、
目を皿のように丸くして見ていて、おもちゃが落ちたとたん、
キャッキャッと笑い転げる時期の子がいます。
どうしてそんなにも面白いのかと首をかしげたくなるほど、
何度やっても大受け。
グラグラするところに物を乗せていって、「あっ、崩れる崩れる!怖い怖い!」と言ったり、
水の入ったコップを傾けて、「こぼれるこぼれる!たいへんたいへん!」と言うと、吸い寄せられるように集中してジィッーと見つめていて、
崩れたりこぼれたりしたとたん、
テンションが上りすぎてピョンピョン飛び跳ねながら笑い転げて、
「もう1回!もう一回!」と大騒ぎする時期の子たちです。
子どもはみんなそんなもの……というとそうではなくて、
その時期の前の子どもたちは、これから何かが起こりそうというシーンを息を詰めて見つめたりしないし、
その時期の後の子も、もう少し複雑なユーモアの方に強く反応するのです。
なら、この「落ちるよ落ちるよ」が大好きな子たちとはどんな時期の子なのかと思って観察するうちに、
『想像力が未発達で、推測したり推理したりする力を伸ばす活動に
積極的な時期の子たちが多い』
ということに気づきました。
「次にどうなるのかな?」と推理して、その通りの結果を目の当たりにするのが楽しくてたまらない時期の子には、
少しずつ推理のハードルをあげていって、「どうなるかな?」と問いかけると、とても喜ぶし、想像力を使って考えるようになっていきます。
自閉症スペクトラムの子たちの中には、
この「落ちるよ落ちるよ」的な遊び(輪ゴムを思い切り伸ばして「怖い怖い」というのもあります)に、しつこくこだわって何度もやりたがる子がいます。
たいてい、「やめなさい」と注意されるか、無視されて……それでおしまい……
となりがちです。
でも、その遊びの世界に大人が近づいていって、それをよりレベル高い推理に洗練させていくと、
算数の問題で、変化した後にどんな答えになるのか当てる
といったことにも興味を示すようになります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遊びではないのですが、
子どもにお菓子をあげると、
すかさず「もっと」と要求するようになる時期がありますよね。
大人からひとつ余分にもらうと自分の分が『増える』ということが
感覚的にわかりかける時期の子が、ひとさし指を立てて、「いち!もういっこ!」とやたらうるさいという印象があります。
このように『増える』ことがわかりはじめる時期に、
小物を使って、「1+1=2 2+1=3 3+1=4 」言いながら、
足し算のルールを目で見える形で表現したり、
ままごとで、食べ物を交換したり、袋や皿に入れていったりしながら、
数の増減を体感する遊びを喜ぶようになってきます。
ハンディーキャップを持った子たちから、
「もっと」という要求や、
「たくさんある方がいい」と選ぶ様子が見られるとき、
(ちょっとややこしい しつこさ が出てきたな~と言うとき)
そうした行動の背後には
「子どもの中に新しい概念を理解する準備が進んでいるのかも」
という視点で眺めると、
その時期に適した学習課題が見つかるかもしれません。
発達が気になる子に対しても、そうでない子に対しても、
やるべき課題のレールを敷いて、
子どもに教育しようと構えると、
親も子も苦しくなってくるものです。
そんなときは、子どもの今の姿の中から、課題を見つけるようにすると、
学ぶことが楽しくて実りあるものになっていきますよ。
「やるべき課題のレールを敷いて、
子どもに教育しようと構えると、
親も子も苦しくなってくるものです。」
これがまさに私のことで、毎期、目標を決めて、取り組むということをしているので、うまく進捗しないと息苦しくなってきます。ぼくてんの育ちを信じて、もう少し母が余裕をもってぼくてんからヒントをつかめられるようになりたいです。
ところで今学期も学校から作品をとじこんで持ち帰りました。文や感想は書けない、とかいろいろありますが、一番は絵を全然書いていない。まったく書けなかったときは、先生の配慮で持ち帰り、母がサンプルを書き、それをみてぼくてんが書くというのをしましたが、それ以外はほぼ白紙のため、どれが合作かすぐ分かる感じになってました。(母との合作でも、ぼくてんがあくまでも書いて色鉛筆でぬっていたので大したことないと思っていましたが、それ以外が全然手つかずでしたので一目瞭然になってました)
でもそれも仕方がないのです。絵を今までほぼ書いたことがないのです。学校に入る直前から、これはまずいかもと思い、母が横につき、簡単なお絵かきの本を参考に練習をいくつかしましたが、それだけなので自主的にお絵かきをする普通のお子さんの数百分の一だろうなあと思います。
おのずからそういう気持ちがわかないときは、わかせる努力をするのが正攻法なのでしょうか。(春休みはお絵かきの目標をたてている母ですが)算数や国語も大切ですが、図工や生活(理科かつどうの事前の勉強)、体育というものは、その子供の本来の力がでてしまうようで、難しさを感じています。
絵を描く事前の段階で、形の模写も苦手だと夏にはわかり、四角や平行四辺形や丸と四角をくっつけた形とかは声掛けをすると気付いて模写できるようにはなりました。が、お絵かきといった、自分で想像して何かの場面をかけるようにもっていくまでにはやはり母とのマンツーマンでいいのでしょうか。
お絵かきが人生をよりよくするものではないでしょうが、授業中にかけたら楽しいだろうなあ、と思うと簡単に捨てきれない母です。
記事とはずれた内容で恐縮ですが、なおみ先生に伺ってみたくてかいてしまいました。ちなみに春休みは工作も一緒に続けようと思ってます。なかなか自分のアイディアを出して工作は出来ないのですが、簡単な牛乳パックをつかった工作とかは二人で楽しみながらやっています。まだ何かが生まれる感じはないのですが、楽しそうにできています。
「これでおしまい」に納得できずに?号泣しています
ですが、増えることがわかり始めたということなんですね。
足し算のルールを目で見える形にして遊んでみようと思います♪
お忙しいところ大変恐縮ですが、以前記事にあった“シングルフォーカスの子供への指導の仕方”について教えていただければありがたく思います。
地震の被害を受けなかった我が家はどう過ごしていくべきなのか…正直、自分たちだけぬくぬくと過ごし、息子に何かを教えるということに対して申し訳ない気持ちもあります。しかしその一方で、これからも何が起きるか分からない世の中を、強く生き抜ける、周りの人の力になれる子に育てるために親としてやれることはやってあげたいという想いも強くなりました。これからも虹色教室通信で勉強させてくださいね。
今回の内面的な敏感期?のお話、とても勉強になりました。今までは目で見て分かるような敏感期にばかりとらわれていたように思います。推測する力を伸ばしたい時期があるという発想は新鮮でした。
息子も何かを隠しては、親に探させて、見つかると一緒に喜ぶという流れを毎日、飽きもせずやり続けているので、何か伸ばしたい内面的なものがあるのかもしれませんね。そういった視点から息子を見てみると新たな発見がありそうで楽しみです。