虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

大人の能力偏差値カード <記憶力> と 幼児期の記憶 2

2010-08-15 13:49:46 | 教育論 読者の方からのQ&A
大人の能力偏差値カード <記憶力> と 幼児期の記憶 1の続きです。

とても記憶力が良いのに、
実際、テストとか生活の場面で、力を発揮できない

という子は、いったい何が問題なのでしょう?

私がそうした子と会って話をしていると、
まじめで、言われた通りに何でもこなすけれど、雑談しても、いっしょに何かして遊んでも、「どんなことが好きな子か」
「何を考え、何を望んでいるのか」「自分ってどんな子だと感じているのか」
いつまでたっても伝わってこない場合があります。

何かが「できるか」「できないか」他人にテストしてもらって、
その評価の結果を待つ
という世界との関わり方以外したことがないようなのです。

さまざまな習い事の体験があるため、そこに流れる時間、次々自分に求められる課題を、
自分の気持ちや欲求を無視してまぎらわしながら、ただこなしていくことは上手に見えます。

でも、
今、自分がしている作業は何を目的としているのか、
最終的なゴールに着実に到着するにはどのような工夫が必要か、
学習しているバラバラの情報は、全体としてどのような深いつながりがあるのかには、他人事のように無頓着です。

その姿は、ひらがなワークの次はカタカナワーク、
足し算ワークの次は、引き算ワークというように、
親にページをやりくりしてもらって、黙ってページを埋めていく幼児に似ています。

案の定、親御さんの言葉も、学校の成績のできふでき、作文のできふでき、人間関係のできふでき、親への態度、道徳的考え方のできふできと、どこまでも
「評価」が続きます。

私が知りたいと感じている 
この子はどんなとき、ワクワクするのか、
どんな夢を抱いているのか、
何に悩み、何に怒りを感じているのか、
どんな友だちと過していると楽しいのか、
大人にどんな風に接してもらったら、
やる気が満ちてくるのかは、
なかなか見えてこないのです。

そんな場合は、たとえ「できない」原因が何らかのハンディーキャップにあったとしても、それだけが問題じゃないな~
また成績を上げることだけが解決じゃないな~
とも感じるのです。

子どもの才能を発揮させる方法 と 大人だけの勉強会についてぐるぐる考えていること  2
の記事で取り上げた糸井重里氏や
アーノルド・パテント氏の言葉から伝わってくる

「自分の思い」「自分の価値観」「自分が大切に思うこと」「する ことそのものが楽しいから する ということ」から
切り離された生活を続けるうち、「自分」の中心に「自分」がいなくなっちゃったんじゃないか……とも思えるのです。
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(糸井重里氏)
ラベルって、要するに世間とかその人の親が重視しているであろうと
本人が解釈しているものですよね。
そこには何ら本人の思いや価値観がない。
でも、それでは自分が何を大切に思っているか
わからないわけだから、
当然力が出し切れません。
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(アーノルド・パテント氏)
目的イコール手段。これが真実です。
「目的と手段はひとつ」なんです。同じものなんです。目的を達成するためにとる手段は、目的そのものなんです。
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私は、幼児に暗記をさせたから、習い事させたから、プリントさせたから、
それだけで、即、大きな弊害に結びつくとは思っていないのです。
少しならいいとか、たくさんはダメとか
量の問題だとも考えていません。

でも、幼い子に「将来役立つから」「級がもらえて(親が)やらせがいがあるから」「(親が)この楽器は基本だと思うから」といった理由で、
本人の本当の気持ちや欲求にフタをして続ける訓練は、
たとえ知力はついても、
クリエイティブに自分らしく自分の人生を創造していく際には
手かせ足かせとなって、エネルギーを奪うと感じています。

目的と手段が、本人のなかでひとつに結ばれているなら……
たとえば、「うらやましいなぁ、あんなことできるようになりたいなぁ」という願いが温められて、努力するうちできるようになったり、
「こんなことやってみたい」と思って、やってみる経験は、
本人の実力となっていくと思うのです。
その本気度の高まりに応じて、何か習ってみようということもあるでしょう。

でも、プレゼントつけたり、褒めて持ち上げたり、級をもらったり、
親が誇大広告に魅了されたりして、
騙されるように「やりたい気持ち」にさせられて、その後、
ずるずる義務を続けるような経験は、
習い事にしろ通信教材にしろ、
自分の意志や感情をだましだまし、適当に何でもする癖がつき、
自分が空洞のまま成長してしまうように思えます。
特に「幼児」のように脳の成長期にそうしたことをするのは
将来、チャレンジする際に、ブレーキをかける性質を作るようで怖いです。

また幼児にフラッシュカードなどで、大量に暗記をさせることは、バランスの悪い頭の使い方をするようになって、
いずれ幼児の暗記法を卒業して、論理的に筋道を追って思考しながら、
適切に記憶したものを活用していくようになるときには、不利に働くなぁと感じています。

今、勉強嫌いで落ちこぼれている小学校高学年の子や中高生はたくさんいます。
でも、そうした子と、記憶ゲームなどをしてみると、
その知能の高さにびっくりすることも
多いのです。
頭が悪いから、できないのではないんですよね。
たいていは、エネルギーが自分を高める方向に向かないだけなのです。

「思い」や「心」をどこかへ追いやったまま、
手や目ばかり動かして訓練しても、
うまくいかない現実があるのです。

幼児期、ゲームや遊びで記憶力を育てること自体は
とても良いことです。
それに子どもも喜びます。
ただ、そうした知的な刺激を与えるときは、
その子自身の「本質的な性質」を育むことが、おろそかになっていないか、
注意が必要ですね。

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