虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

考えることは無駄じゃない 

2015-02-13 11:25:10 | 日々思うこと 雑感

異業種の人同士グループを組んで、

アイデアを出しあって発表するイベントに友だちと参加してきた息子。

息子のグループは、学生の息子を除いてみんな年配の方々ばかりだったそうで、

さまざまな会社のすごい肩書きがついた名刺をいただいてきました。

 

話しあいのテーマは息子の関心から遠いものだった上、時間が短く、

「ありきたりのアイデアしかだせなかったけど……」と悔やみつつも、

年齢も立場も異なる方たちとの会話がとても面白かった様子。

(打ち解けてしゃべっていたら、突如、「君が発表して」とグループの話し合いを

まとめて発表する大役を任されることになり、緊張して思うように説明できず、

後から友だちにダメ出しをもらったそうですが……。)

 

「家であれこれ考えている時は、自分ひとりでどんなに考えを練ったところで

価値がない……というか時間の無駄のように感じるんだけどさ。

せいぜいそれについてお母さんと会話するぐらいで、

成績や資格に結びつくわけでも、すぐさま何かに活用するわけでもないから。

でも、今日みたいに社会に少し触れるような場で会話をすると、

普段、自分の中でいろいろ考えていうことは、お母さんと会話していることも

含めて、無駄じゃないんだと感じたよ。

今回のテーマは、興味があるものじゃなくて、もうちょっと具体的な

プログラミングやアプリ開発の議論をしたかったけど、

それはあちこちでやってるから次でいいよ。

興味あるかどうかは別にして、いろいろな人と話をしていると、

これからしたいことが見えてくるな」と息子。

 

「どんな?」とわたし。

 

「自分のクリエイティブな分野をしっかり作っていきたい。

自分のアイデンティティと一致する分野で、技術的な高さみたいな

普遍的な価値のひとつひとつを積み重ねて、強みを持っておきたいんだ。

 

とてもいい大学を出た人がこんなことを言ってたんだ。

その大学に行ったから特別なことを学べたかというとそんなことはない。

ただ、学歴から得た利点は、権力に対して物怖じしない気持ちを持てるように

なったことだって。

すごく生意気でえらそうに聞こえるかもしれないけど、それを聞いてぼくには

誇れるものがなくても、肩書きとか世間の評価に怖気ずに、

自分で見て感じて考えたことを大事にしていきたいと思ったよ。

 

すごくえらい人たちと話をしてみると、えらい人はやっぱりすごい面がたくさんあって、

うまく言葉にしにくい話題で、こんな言い方をしちゃうとちゃんと伝わるかなと

心配になるような微妙な言い回しになっても、

ちゃんと要点をつかんで理解してくれていよ。

でも、こんなこと言うと本当に生意気で失礼だけど、

でも、どんなにえらい地位にいる人も、学生がどんなものをほしがるか、

若者の間で何が流行っているか、何に惹かれて物を買うのかとなると、

よく知らなかったりするんだ。

もうすでに自分以外の誰かが考えているはず、もっと能力の高い誰かが

やってしまっているはず、なんて怖気づかずに、自分の立っている位置で、

考えられることをじっくり考えて、できることをひとつひとつやっていきたいと

思ったよ」

 

息子の話を聞くうちに、数日前に読み返した鷲田清一先生の

『わかりやすいはわかりにくい?臨床哲学講座』の一文を思い出しました。

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とはいえ、考えてみれば

これは老いの時期に限ったことではない。少なからぬ若者もまた、

社会生活の入口のところですでに、傷とかあきらめといったひりひりするような

痛みを深くため込み、力なく佇んでいる。

人生のあらゆる類型がすでに出そろっているところに生まれてきて、これからの

道のりが、その終焉の姿までほとんど「見えちゃって」いて、彼/彼女らは

「人生の盛り」を「もう済んだ」ものとしてしか受けとめられなくなっているらしい。


   『わかりやすいはわかりにくい?臨床哲学講座』鷲田清一/ちくま新書P132

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 ここで書かれている若者の姿は、

うちの子たちから遠いところにあるわけじゃありません。

<人生のあらゆる類型がすでにそろっているところに生まれてきて、

これからの道のりが、その終焉の姿までほとんど「見えちゃって」いる>ように感じる

世代のひとりで、そうした思いにずっと小さいころから感染してすでに

病んでいるような面があります。

自分を呑み込もうとするこの世代が抱えている退廃的な気持ちとどう折り合っていくのか、

それがいつもこの子の考えの底流に流れているんだなとも感じます。

娘は、がむしゃらに飛び込んで行っては、大きく転んで、

また新しい何かに突進していく形で外にその答えを求め続けていて、

息子は日々の体験を反芻しながら、自分の内に答えを見つけようとしているようです。

 

 

 


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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
学歴 資格 権力 (しまなみ)
2015-02-18 04:30:14
考えること について、わかいひとの試練について、洞察に共感しました。
また、学歴について、なるほど、と、思います。私は、資格のなかで、かなり 強いものを持っています。手に入れたあとのメンテナンスが皆無に近く、日本の何処でも一応食べていける。では、自分はどうなったかというと、やはり、権力や圧力に怯えなくなりました。また、ひとを威圧することもありません。でも、資格が、学歴が、そういうものでなくても、大人としてしっかりした方は、そういう在り方をしてますね。また、ずっと以前に、尊敬する師匠が、個性的、天才すぎて、どうみても柄じゃないのに、教授選に名乗りをあげました。彼に、何故、と伺って、ひとに嫌がらせされないし、しなくてすむから、と、こたえられました。偽悪気味だけど嫌がらせなんてほとんどしてない方としても、尊敬するほどなのに!
息子さんの洞察に、腑に落ちなかったものが、つながりました。
師匠は、よりよくあるために、行動なさったのかもしれません。
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