虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

早期教育のメリットは? デメリットは? どこにどのような問題があるのでしょう 7

2013-02-07 15:59:56 | 教育論 読者の方からのQ&A

前回の記事は、誤解を与えるような表現になったかもしれない、と気にかけつつ、

もう少しだけ続きを書かせてくださいね。

 

わたしはどちらかといえば早期教育賛成派で、

いくつであっても、それぞれの子の潜在的な可能性を十分に伸ばしてあげたいという

気持ちを持っています。

その一方で、ネットで早期教育に関する話題を目にしたり、

早期教育を取り入れている保育所や幼稚園、また小学校受験のための教室の

話を耳にしたりするたびに、

それに巻き込まれている幼児のことを思うと

心に暗雲が立ち込めて、息苦しくなることがしょっちゅうあります。

 

自分が思っている早期教育とそうではない早期教育の間にどんな違いがあるのか、

早期教育の話題に心が痛むのはなぜなのか、

上手く言葉で表現できないジレンマを抱えながら

何とか書き進めていきたいと思っています。

 

「なぜ心が痛むのか」

その大元を探れば、

わたしが付き合っている人とか結婚相手から、

「おれが世界一の女になるよう教育してやる」とか

「ぼくが家事も料理も最高によくできて、気立てがよくて、高収入を稼ぎだしてくるような

嫁になるよう磨きあげてあげよう」なんてスタンスで

関わられたら、イヤだろうなぁ~と思うから、と理由になっているのかどうか

わからないような自分の気持ちがあります。

 

おまけに、「こんな人間にしよう」とはりきる相手が、

自分は何もしないで、こちらにばかり結果を求めてくるとなると

どんなに優しく接してもらっても、お腹の底ではゾッとするような

不快感を溜めこんでしまう気がします。

 

やっぱり愛情で成り立っている関係に持ち込んだらいけない思いっていうのが

あるんじゃないかな?

と思うのです。

たとえ幼児のように何から何まで大人の世話になっている状態でも、

ひとりの人間なんですから、

超えちゃいけない境界線のようなものはちゃんとあると思うのです。

それをいくら「親の愛」とか「親バカ」なんて言葉でカモフラージュしても

やっぱり気色悪い。

 

それに幼児期の終わり頃には、薄々そうしたものを察する能力を

持っているし、

遅くても思春期にはそれと向き合うことになるはずです。

気付かない子はそれはそれで大人になるまで

情緒的な問題を抱えていくことになりかねませんよね。

 

もちろん子どもの近くにいる大人として

身体も頭も心も健やかに成長するように

より良い環境を用意する責任はあるし、

その子への愛情から、

才能を伸ばしてあげたいと思い、

先々のつまずきを少しでも減らしてあげたいと思うのは

当然だし、それは悪いわけではないはずです。

 

でも、その思いが暴走したり、たくさんある情報のために鈍感になったりして、

「こんなこともあんなこともして、こういう子に育てよう」

「小学校受験、中学受験も目指して、

より受験に有利なように育てよう、がんばろう」

という言葉が出てくると、

子どもという個人を自分の私有物のように捉えているのかな?

そんな親のもくろみの下で育てられて、愛情を疑うようにならないのかな?

と心配になってくるのです。

 

子どもは親の願う結果を出すために生きているんじゃないし、

「こういう子にしよう」と勝手に親に努力されて、

その通りに育たなかった場合のリスクまで背負わされたらたまらないです。

 

親って子どもの前でもう少し謙虚でなくちゃいけない

と感じるのです。

人間の前で……と言った方がいいかもしれません。

子どもの人生に対して……とも言えるかもしれません。

 

もちろん、親のそれまで生きてきた知恵や善悪への感性、

生活の技術、学ぶ楽しさなど、

それをどれだけ伝授しようと、環境を豊かなものにしようとかまわないと思います。

それが子どもの人生を明るくいきいきしたものにする

礎となることでしょう。

 

でも、そうした学びの伝承には、

たとえ相手が0歳児でも、

人間の尊厳が危うくなるようなことはしない、

自分が人としてされたらいやなこと、

愛情で結ばれた相手に思われたら心が重くなるようなことはしない、

そういう考え方を持たない、

という暗黙の原則があるのではないでしょうか。

自分の願望を実現するのは、

やっぱり自分の人生でしなくちゃならない、と思うのですよ。

 

人生って未知のものですから、どんなに準備しても

先はどうなるものかわからないものです。心変わりも何度もあるでしょう。

自分で自分の願望を見つけ出すだけでも、自分の人生の舵取りをするだけでも

大仕事なのに、

いちいち親の願望に沿ってるかどうかまで気にしなくてはならなかったら

めんどくさくてしょうがないでしょう。

 

大きな挫折する時には、それを受け入れて、乗り越えるだけで、

自分の全てを使ってふんばっていかなきゃならないのに、

親の絶望感まで背負っていたら、引きこもったり鬱に陥ったりしても無理はない気がするのですが……。

 

わたしは教師と生徒の間にも

人と人として大切な境界線があると思うし、

大人と子どもという力関係のもとで

自分の思いたいように相手をいじっていいわけじゃないと

考えています。

「おれがオリンピックに連れていく」とか

「わたしが受験に合格させてみせる」なんて言葉は

そういう言葉を望む人がいたって、

やっぱり使っちゃいけない、思っちゃいけないものじゃないかな、

って感じています。

 

子どもの受験勉強のためにできる限りのサポートをして、

自分のそれまで学んできた知識を総動員して関わって、

その結果、合格したとしても、

そこで、「先生のおかげ」ってなっちゃったら、

その子の努力や才能はどうなるのかな?

と思いますから。

 

 

子どもへの教育は

純粋に相手の最高の幸福を願う祈りのようなもので、

それ以上でもそれ以下でもないと思っています。

 

 


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1 コメント

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色々感じたこと (ワーキングマザー)
2013-02-08 14:03:08
私は子どもの問題を目の当たりにしたり、他の人に指摘されると、その瞬間から子どもの問題が自分の問題になり、なんとかして解決しないといけないなという思いが募ります。(たまにはそうやって親の気持ちを表すのもいいかなと思うのですが、)基本的にこういう気持ちになるときは、完全に子どもの気持ちやペースを置いてきぼりにしているのでだめですね。子どもを傷つけてしまいますし、改善することはあまりないです。

以前先生のプログでもあったと思うのですが、たくさんの人たちが検品するように子どもをみているなかで、親である自分が、かけがいのない子どもを、一人の個人として信じて、その進もうとしている人生を見届けてやろうと思ってます。少なくとも親である自分が乱さないでいようと思います。

でもあれもこれもやってあげたい、こうなってほしいと思ってしまう気持ちもわかります。
子どもとの関わり合いがわからなくて早期教育を一つの関わりの手段にしているうちに、それこそが唯一の今の自分の生きる証となってしまって、一生懸命になってしまうという気持ちがよくわかります。私も子どもとのかかわり合い方がよくわからなかったので。それに私も含め多くの方が、大なり小なり自分自身を子どもを通して評価してもらいたいのだと思います。その自分の姿に気付いて踏ん張るかどうかは、なにが決め手となるのでしょうか?

私の場合は、自分と子どもとの関係だったり、周りの親子の関係なり、社会の仕組みなりに、ちょっとした疑問というか違和感を感じてから今まで、よくわからないけど、その違和感を少なくしたいと思って日々過ごしています。それが踏みとどまろうと思える理由です(といっても一線を越えること多々あります。行ったり来たりです)。
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