虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

小学生のつまずきと教え方 1

2022-06-27 18:08:46 | 算数のつまずき克服

診断はくだっていないグレーゾーンの子も含めて、発達障害や知的障害がある子と、障害のない子では、つまずく原因も、できるようになるための手立ても異なるケースが多いです。
ですから、子どもが「わからない」と言っているからと、どの子にも同じ方法で教えたのではうまくいかないように思います。

発達障害などがない子たちに教える場合、いきなり解き方を教えるよりも、まず学習に対する主体的な態度やメタ認知力をつけていくことが大事だと考えています。

文章題が苦手な子にも、やる気がない子にも、学習の力の入れどころがずれている子にも、他の子と計算時間などを比べて、「計算をもっと練習したらできるようになるよ」といったアドバイスをするのは、あまり良い教え方とは思えません。

そうした子たちには、大人が、「遠回りで本質からずれた方法でも、まず練習さえすれば、やってるうちに成績に結びつくから、それで欲が出て、勉強をするようになるはず……」という子どもだましな方法で指導をしても、心の底では、「そんなのおかしい」と感じて反発するので、大人の思惑通りいかないものなのです。
また、本当に計算さえすれば成績が伸びる子だったとしても、その必要性を本人が自覚しない限り、やらされている作業をただこなすだけでは、成績に結び付けていくことは難しいのです。

現実に大阪市では、○○式なる大量に計算訓練をさせる教室をいたるところで見かけるし、小学生と話をすると、その教室に通っていない子の方がめずらしいほどなのですが、大量に高速で計算させる学習をする子が増えたから、大阪市の子どもたちの学力が向上しているという話は、聞いたことがないのです。

主体的な態度やメタ認知力をつけていくとは、つまり、子どもに、どこがどのようにわからないのか具体的にくわしく説明させたり、自分にはどんな学習が足りないと思うか、どんなことをすればできるようになりそうか、分析させたりするのです。

自分のしている学習を、少し高い位置から客観的に眺めさせて、自分でやることを決めさせるのです。

もちろん子どもにとって最初はどうすればいいかわからないでしょうから、ヒントをたくさん与えます。
そうしながら、大人もいっしょに、わからない原因と、これから必要な学習を分析していくと、大人の側もどんなことをどこまで支援すればよいのかわかってきます。

虹色教室では、こんなことがありました。
小学4年生の☆さんは、頭は良いのですが、さみしがりやで飽きっぽい性格です。宿題を始めるやいなや、「わからない、できない」と言うと、お母さんが飛んできて、手を変え品を変えして説明したり、「どうしたらいいんでしょう?」っと心配したり、「なら、先生に聞いてみようか?ならこうしたら?」と提案してくれるのにすっかり味をしめて、『自分で考えてみる』ということは、思いもよらない様子です。

教室でも、すぐさま「わからない、できない」と言うと、よそ見を始める☆さんに、私は、お友だちや年下の子たちに、解き方を教える役をさせたり、友だちと協力し合って考える機会を与えたりしています。

☆さんには、読書家で、いつも図書室で借りた本を見せてくれるという一面があります。それで、「本がたくさん読めるということは理解力がある証拠よ。めんどくさいという心を乗り越えて、がんばってみて。自分で考えるの」と説得していました。
すると、私の前では、「できない、わからない」と騒ぐのはやめて、課題にきちんと取り組めるようになってきました。

この☆さんのように子どもが「わからない」というとき、その子の力量を見極める大人の眼力が大切だと感じています。
ていねいな説明が必要な子と、自力で少し考えさせる必要がある子がいるのです。
考えさせるというのは、問題の解き方だけではなく、「自分はなぜ解けないのか」という理由もです。
「そうだ、学校で先生の話を聞いていなかったからわからないんだ」と気づくかもしれません。
そんな場合は、先生の話など聞かなくても、いつでも「わからない」と言えばだれか助けてくれるよと身体に覚えさせるよりも、「今度から、ちゃんと授業を受けよう」と本人が自覚した方がいい場合があります。

最近では、子どもが「わからない」と言おうものなら、どう教えたらよいか、誰に教えてもらうよう手配しようかと考えることに忙しくて、「まず、自分で考えてみた?」とたずねるのを忘れている場合がよくあるのです。
子どもの側も、まだオムツをしている年齢から、ご機嫌を取りながら手取り足取り教えてくれる習い事や、何も考えなくてもスローステップで出題されるプリント問題に慣れすぎて、たった1分かそこらでも、自分の頭を使ってみる体験をしたことがない子もけっこういるのです。
考える前に、「自分で問題を読んでみた?」と問わなくてはならないケースもあります。

 

学習していくとき、人が頭の中でする作業には、次の4種類があげられます。

★わかる……認知する・分類する・意味を理解する
★覚える……保持する・記憶する・想起する
★考える……類推する、推測する、一般化する、抽象化する
★決める……企画する、評価する、判断する、選択する

学習というと、上であげた『わかる』と『覚える』を子どもに繰り返させることというイメージがあります。

認知させ、分類させ、意味を理解させ、その記憶を保持させて、思い出させてテストすることを繰り返すことこそ、学力につながると信じられています。
教材では、類推する、一般化するといった『考える』作業は、そのパターンをわからせ、覚えさせて、テストしていくことでマスターさせるようにできている教材は多いです。
またそういう学習の場では、『決める』は大人がしてあげる仕事という前提があります。

「読み書き計算は学習の基礎だから、まず読み書き計算の徹底を!」というスローガンはもっともだし、その大切さはよくわかるのですが、子どもの能力を急いで上げようとするあまり、『考える』体験と、『決める』を体験をする場や機会がなくなっているのはどうかなぁ?と感じています。

ひと昔前の子であれば、外で子どもだけで群れて遊ぶ時間が長かったので、自分で選択したり、評価したり、判断したり、企画したりすることは、しょっちゅうありました。
大人が飛んできて何でも解決してくれるわけではないので、推測したり類推したりする力を発達させないと危険でしたし、家のお手伝いは、考え、決める力を使う絶好のチャンスでした。

それが、最近では、学習法がどんどん合理的になり、系統化されているので、テストの点としては、短期間に急速に進歩するようになっているものの、そのせいで、子どもが自分で考える体験も、決める体験もできないということが起こりがちなのです。

★考える……類推する、推測する、一般化する、抽象化する
★決める……企画する、評価する、判断する、選択する

は、授業内容や教材の中に取り込もうとすると、複雑になって難しいですが、遊びやお手伝いやものづくりや会話の中では、大人の関わり方次第で、自然に伸ばしていけることでもあります。

私が子どもの頃は、学校の規則がそれほど細かくなかったので、学校でたびたびトラブルが発生していました。
そのたびに、学級会や終わりの会で、子供同士、活発に意見が交わして、問題を解決しようとしていました。
当時は、『考える』と『決める』が活性化されるような場面がたくさんあったのです。
授業中に交換日記を回している子がいるとか、シャーリングなどのおもちゃをどこまで学校に持ってきてもいいかとか、男の子の口が悪いとか、女の子がえらそうだとか、揉め事にしても、けんかや話し合いにしてもつきることはありせんでした。
本当にうだうだと言い合いばかりしていましたが、そうした真剣な言葉や感情のぶつけ合いを通して、自分の責任を自覚したり、考えを練ったり、判断力をつけたりしていたのです。
「子どものことは、大人が何でも決めて、大人が勝手に解決する」という風潮は、最近のものだと思います。

基礎が大事だからと、『わかる』と『覚える』を訓練していく際の問題は、大人が子どもの能力を伸ばそうとあせるあまり、視野が狭くなって、

★わかる……認知する、分類する、意味を理解する
★覚える……保持する。記憶する、想起する

の部分で、少しでも先に進ませようと、目に見える成果を求めるあまり、『考える』と『決める』を体験する場や機会を奪ってしまうことにあるように思っています。


忙しくって、子どもたちに話し合いなどさせていられない……という大人のせかせかした態度をゆるめて、少しリラックスして子どもたちに接しないと、勉強はたくさんしたけれど、考えたり、決めたりしたことがないという子が増えてくるかもしれません。



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