最近の寝る前の御伴でした。
『楽園のカンヴァス』です。
久々寝る時間を削っても読みたい感じになった本でした。
しかし、美術好きでない人は最初の説明臭い書き出しで挫折して
しまうかもしれません。
演劇や物語として太古から人の取り違えや美術品の争奪やらその真贋
というのは古くからテーマになったり、物語の核になったり、テクニックとして
繰り返し見せられたり聞き及ぶ話となっていました。
この物語の最初の絵の中に入り込んでしまう感覚と体験を持たない人は
この物語自体に違和感を抱くでしょう。
それにある程度の美術品に対する知識と好機の心を試されるかのような
仕掛けになっていると思いました。
まず主人公の勤める職場ですが、日本にエルグレコがある奇跡という
ところで、どこに勤めているのかと解るし、その奇跡というフレーズに
思うところが浮かびます。
まず、300年も400年も前の絵が当時と変わらぬ色彩を保ち当時と同じ
感動を与えているという奇跡と、それが東洋のはずれの日本という島国の
地方都市の美術館にあるという奇跡。
これは本当に奇跡であるとしか言いようがない事実でありながら、考えて
みるとそれは高々千円とちょっとで体験できることであり、日本のそれも
新幹線が止まる駅にある美術館なので行くのもそう難しくないし、日帰り
で帰ってくることも可能なことから、案外手軽な奇跡体験としてだれでも
体験可能なことなのです。
そうなるとこれは奇跡なのか。
そう考えてくると美の体験とは人類の偉大な知の集積であり、情報を
蓄積し発展しえるという奇跡というか人のみがなせる技であり、その
結果なのです。
未だに人の進化を否定する猿から出たものではないとする人もいますが、
それはこういった20万年の人類の歩みを否定することでもあると思い
ます。
そして、それは芸術科学の否定でもあります。人は神によって生かされている
神によって創造され生かされていてそれは終わりがあるという人達は
自らの生とか芸術とそれを愛でる心を理解しないのでしょうか。
人の生は醜い権力争いや勢力争いと欲望の果てにもろくも踏みにじられ破壊され
蹂躙されてきましたが、日本もその結果焼け野原になり多くのものが
破壊され灰になっていても多くの過去の名品や美術品はその来歴とともに
保管され後世に残されているのです。
それも日本国内だけでなく世界に広まって各地にあるというそれだけでも
私には奇跡に思えてしまいます。
同じように何百年前の天才の楽譜が残り、未だに各地で現代の名演奏家に
よりその同じ音楽が今日もどこかで演奏されているという事実も奇跡で
あるし、それを体験するのに嘗ては時の権力者しかなしえなかったことが
今や一般大衆が数千円という出費で展覧会や演奏会という機会で簡単に
体験できるのです。
これこそ人類の英知の発展と言えるでしょう。
ただ、それは先進国の一部でしか起きていないことだとか世界には飢えている
人が未だに何万人もいるとか難民の数を上げるひとがいます。
しかし、ここ百年の間で人間がなしえた事実を見返すだけでやはり発展と
進化は歴然としてあるのです。
さて、そんな思いを描く美術や芸術好きの人でなくても最初の筋立てから
ぐいぐい物語に引き込まれるような突飛なストーリー展開にやはり夢中に
なるのではないでしょうか。
地方の冴えないシングルマザーの女性が突如世界のひのき舞台に引きずり
出されるその原因となった過去の対決とは。
まあそんなところなのですが、そもそも芸術家故にその人生は突飛で
凄惨な人生であるというのはごく当たり前でそういったエピソードは
作品に華を添えるかのようです。
特に日本人としては極貧で不遇というのが特に好きらしいです。
ゴッホのように生前は一枚しか絵が売れなかったとか、突飛な
エピソードやその天才故に世からは理解されず後世その功績と
与えた多大な影響の数々を並べるのが好きなのです。
総合的に考えてみれば、人類が二度の大きな戦争を経る前の
このピカソやルソーが活躍したパリは正に芸術が花開く大変な
変革の時で、壊して見せたピカソは芸術の父であり、その後の
20世紀はさらにそれが進み輝きを増したのかというと目立つ
スター的な人は多々出たものの、その作品が彼ら以上に奇跡と
呼ぶような作品かというとそうとも言えません。
今六本木でアンディウオホールの展覧会をやっていますが、
その代表作といえばキャンベルスープの絵だったりでこれが
取引額で言えばピカソをも超えた芸術家に違いないわけですが、
大量に作られた印刷物だったり、個人向けの写真から起こした
有名人の肖像画など博物館に飾る物なのかという気もします。
過去の何百年も観賞に耐える作品と同等の価値があるとも
思えない印刷物や大量に刷られたポスターにこれからは
普遍性や希少性以外の価値を見出すことになるのでしょうか。
これはこれで興味もあるのですが、21世紀の芸術家はこの
やり尽くされたような後に今後やっていくべきことを見出すのが
大変なのではと思ってしまいます。
それでは今一番取引されていたり現代の美術家の展覧会が
どんなものなのかというと鎧武者がタケコプターで飛んでる
絵だったりします。
そうかと思えば、細密画のような写真以上に本物を写し取ったような絵
だったり、カボチャに水玉のような造形物だったり、利休好みの
楽茶碗であったりとまあ何でもありなのかとも取れてしまうのです。
そこで、ピカソとルソーが交錯するそんな物語にキュレーターが
対決するというお話はあってなさそうなトンデモ話です。
でもとかく高額な金額と真贋問題と盗難などの来歴が取りざた
される美術界では正規のという正しい取引と登録が難しい世界
なので、こういう物語も当然起きてきます。
日本人の精神としては、そういった美術品を正しいところに救って
やりたい、ただしてやりたいという心根があり共感をとりやすいところ
を狙っていると思います。
それより先に感じたのは、この真贋を掛け対決させてまで行く先を
決しようとするコレクターの心も美術界で生きている人のそもそもを
感じます。
また、この物語は古風な舞台立てと手法ながら、美というものを
常に感じ、その中で生き遊ぶ術を知っているからできた構成なのだと
いうことで、対決とそれ経る七つの物語というスタイルは美を知っている
作者だと思わずにはいられませんでした。
対決の結末や登場人物の弱さや書ききれなさはやはりあるものの、
久しぶりに熱中して楽しめた本でした。
最近は本を楽しむということもあまりなかったので楽しい読書時間でした。