駄文であろうがものを書いたりしているため、辞書は欠かせない。
国語辞典や古語辞典、英和、和英、独和、仏和、哲学、音楽、経済、他に川柳辞典などを傍らに置いている。
以上は比較的よく使うのだが、最近、持っているにもかかわらず、滅多に使わないのが百科事典である。
パソコンで、GoogleやYahoo!の検索でほぼ用が足りてしまうからだ。
しかもこれらの記事は、そのリンク先を辿ることによって、百科事典では得られない幅と広がり、視点の差異なども知らせてくれる。
これぞ情報社会のメリットと、私もふんだんに使わせて貰っている。
ところがである、私たちが情報社会を謳歌していると思っているとき、同時に、私たちの情報も確実にキャッチされているのだ。
例えば私がある検索機能へ接続し情報を求めるとする。
しかし、その時、私がどんな情報を求めたかがその検索機能へも記録されるというのだ。
ということは、私が、いつ、どんな項目にわたって検索を行ったかがデータとして蓄積されるならば、そこには私のありよう、ある種の知的関心の領域、あるいは思想的傾向までもが見えてしまうことになる。
そしてそれは、現実に行われていることなのだ。
かつて、情報というものは書や新聞であれ、ラヂオやTVであれ、匿名の私たちがそれをとり、利用するものであった。しかし、今や双方向性を常とするような情報の在り方に於いては、とりにいったものがとられるが常態なのである。
ホラホラ、そこのあなた、裸のねえちゃんばかり見に行くと<A=どすけべえ>と記録されますよ。
などというレベルの内は良いが、これがある種の権力機関によって管理保管されるとしたら、これはやばいのではあるまいか。
現に、中国などでは、それが公然と行われ、Googleなどもそれに協力しているといわれる。
また、これとは次元が異なるが、私が本名で検索を行った結果、Googleでは122項目、Yahoo!では55項目がヒットした。
なかには同姓同名や似通った人の名もあったが、ほとんどは私のものだった。
これは、10年ほど前に一冊本を出していることによるのが大きいのだが、それに付随して誰かがブログで私のそれに触れたもの、あるいはまったく無関係に 私についてどこかで何かがいわれていることなども網羅されていて、我ながら驚いた次第である。
情報化社会というのは、見えざるバリアーで包囲され縛り付けられている社会でもある。
国語辞典や古語辞典、英和、和英、独和、仏和、哲学、音楽、経済、他に川柳辞典などを傍らに置いている。
以上は比較的よく使うのだが、最近、持っているにもかかわらず、滅多に使わないのが百科事典である。
パソコンで、GoogleやYahoo!の検索でほぼ用が足りてしまうからだ。
しかもこれらの記事は、そのリンク先を辿ることによって、百科事典では得られない幅と広がり、視点の差異なども知らせてくれる。
これぞ情報社会のメリットと、私もふんだんに使わせて貰っている。
ところがである、私たちが情報社会を謳歌していると思っているとき、同時に、私たちの情報も確実にキャッチされているのだ。
例えば私がある検索機能へ接続し情報を求めるとする。
しかし、その時、私がどんな情報を求めたかがその検索機能へも記録されるというのだ。
ということは、私が、いつ、どんな項目にわたって検索を行ったかがデータとして蓄積されるならば、そこには私のありよう、ある種の知的関心の領域、あるいは思想的傾向までもが見えてしまうことになる。
そしてそれは、現実に行われていることなのだ。
かつて、情報というものは書や新聞であれ、ラヂオやTVであれ、匿名の私たちがそれをとり、利用するものであった。しかし、今や双方向性を常とするような情報の在り方に於いては、とりにいったものがとられるが常態なのである。
ホラホラ、そこのあなた、裸のねえちゃんばかり見に行くと<A=どすけべえ>と記録されますよ。
などというレベルの内は良いが、これがある種の権力機関によって管理保管されるとしたら、これはやばいのではあるまいか。
現に、中国などでは、それが公然と行われ、Googleなどもそれに協力しているといわれる。
また、これとは次元が異なるが、私が本名で検索を行った結果、Googleでは122項目、Yahoo!では55項目がヒットした。
なかには同姓同名や似通った人の名もあったが、ほとんどは私のものだった。
これは、10年ほど前に一冊本を出していることによるのが大きいのだが、それに付随して誰かがブログで私のそれに触れたもの、あるいはまったく無関係に 私についてどこかで何かがいわれていることなども網羅されていて、我ながら驚いた次第である。
情報化社会というのは、見えざるバリアーで包囲され縛り付けられている社会でもある。