入院中の母が転院いたしました。
現在の医療システムでは、同じ病院に3ヶ月以上置いてはもらえないのです。
本当は、母の場合、「胃ろう」といって胃に穴を空け、そこから栄養を摂取させるのに成功したら医療施設から介護施設へたらい回しするという現在の末期医療並びに末期介護のレールを歩んでいたのですが、「胃ろう」がうまく働かず、カテーテルからの栄養補給のままですので、他の病院送りになったのです。
これは今までいた病院
左手を残して全身麻痺し、意識自体ももうろうとしている母に、もう従前へと戻る道は絶たれています。しかしまだ、医療や介護にとっての商品としての価値があるのでしょう。
はっきりいって、ここには死にゆく者をも稼ぎの対象にするシステムがあります。
しかし、その一命にかすかな望みを託し、かつ、帰れないにしても末期を少しでも快適にしてやりたいという家族にとっては、そうしたシステムに頼る以外ないのです。
よく顔を合わせるのですっかり仲良くなったテキヤのおじさん
ほとんど毎日病院の前に陣取っていた
のっけから暗い話で申し訳ありません。
転院するために会えなくなるものがあります。
病院の前に陣取っているテキ屋のおじさんとも会えません。
「つばくろう」の方は、飛び立ってからもう一週間にはなるでしょうか。
そうそう、もうひとつ忘れていました。
この駐車場に住みついている猫です。
こやつとは、私の車の下で寝そべっていたときに知り合いました。
母の転院の日、彼(彼女?)は、たまたま近くにいたどこかのおばさんの足元で甘えていました。
「え?どうしたの?なんかほしいの?おうちは?」
と、おばさんが聞いても猫はただ甘えるのみです。
私がカメラをむけても、
「あ、この間のおっさんか」
と、いった感じで少しも動じません。
私は、「さよなら」とつぶやいてシャッターを押しました。
これが新しい病院
転院先は新しい病院で、設備は悪くなさそうです。
まあ、なんやかやいいながら、私たちはそれに頼るしかないのです。
母に、「新しい病院だよ」といったら、私の顔をまじまじと見つめて、「ううう」と声を発しましたが、分かってはいないと思います。
現在の医療システムでは、同じ病院に3ヶ月以上置いてはもらえないのです。
本当は、母の場合、「胃ろう」といって胃に穴を空け、そこから栄養を摂取させるのに成功したら医療施設から介護施設へたらい回しするという現在の末期医療並びに末期介護のレールを歩んでいたのですが、「胃ろう」がうまく働かず、カテーテルからの栄養補給のままですので、他の病院送りになったのです。
これは今までいた病院
左手を残して全身麻痺し、意識自体ももうろうとしている母に、もう従前へと戻る道は絶たれています。しかしまだ、医療や介護にとっての商品としての価値があるのでしょう。
はっきりいって、ここには死にゆく者をも稼ぎの対象にするシステムがあります。
しかし、その一命にかすかな望みを託し、かつ、帰れないにしても末期を少しでも快適にしてやりたいという家族にとっては、そうしたシステムに頼る以外ないのです。
よく顔を合わせるのですっかり仲良くなったテキヤのおじさん
ほとんど毎日病院の前に陣取っていた
のっけから暗い話で申し訳ありません。
転院するために会えなくなるものがあります。
病院の前に陣取っているテキ屋のおじさんとも会えません。
「つばくろう」の方は、飛び立ってからもう一週間にはなるでしょうか。
そうそう、もうひとつ忘れていました。
この駐車場に住みついている猫です。
こやつとは、私の車の下で寝そべっていたときに知り合いました。
母の転院の日、彼(彼女?)は、たまたま近くにいたどこかのおばさんの足元で甘えていました。
「え?どうしたの?なんかほしいの?おうちは?」
と、おばさんが聞いても猫はただ甘えるのみです。
私がカメラをむけても、
「あ、この間のおっさんか」
と、いった感じで少しも動じません。
私は、「さよなら」とつぶやいてシャッターを押しました。
これが新しい病院
転院先は新しい病院で、設備は悪くなさそうです。
まあ、なんやかやいいながら、私たちはそれに頼るしかないのです。
母に、「新しい病院だよ」といったら、私の顔をまじまじと見つめて、「ううう」と声を発しましたが、分かってはいないと思います。