近くの医院へ行った。先般おこなった検査の結果を聞くためだ。
「だいたいにおいて良いです。ただ一点を除いては」
と女医さんが告げるのだが、その一点が問題なのだ。
いわゆる「悪玉コレステロール」が従来より急増しているという。
何年か前にもそういわれたことがある。
「悪玉」と言われるくらいだから悪い奴に違いなく、正義の味方たる私がそれを放置するわけになゆかない。したがってこの間、医師の指導に従い、悪玉と熾烈に戦い続けてきた。
玉子、魚卵、烏賊、甲殻類、貝類、干物、動物性油脂などなどは能う限り慎重に回避してきた。
おかげで、寿司屋に行っても、白身、マグロの赤身、光りもの以外食うものがない。
まあ、私の食べることが出来るものは割合低価格で済むのだが、その代わりひと様といった折などは必ず割り勘負けをする。相手が「トロ、海老の踊り、ウニ、イクラ、アワビ!」などと叫んでいるとき、私はしめ鯖などつつきながら、「すみません、カッパ巻きを下さい」といった有様なのだ。
わらしべを焼く匂いも撮したかった
なぜ私がこれほどの苦行に耐えてきたのかというと、それには深~いわけがある。
それはコレステロールの増減にとってのもうひとつの大敵、アルコールの摂取を聖域として保持したかったからである。早い話が、酒を続けるために食い物の方の制限を甘受してきたわけだ。
にもかかわらず今回のような結果が出たと言うことは、敵は私の迂回作戦を打ち破り、ついに聖域たる本丸にとりかかりつつあるということである。
これは私にとって人生最大級の岐路ともいえるが、問題それ自体は単純である。酒類を慎んで生き長らえるか、それとも命を賭して飲み続けるかである。
柿の紅葉 まだ命が逆らっている
齢70は越えた。しかし、「見るべきものは見つ」などという取り澄ました心境にはない。奥手の私にはまだ見えぬものがたくさんあるし、あるものが見えるとその周辺がなお見たくなったりするのだ。
これは生への執着とはいささか異なるとも思っている。ただ長く生きたいと思っているわけではない。
世界とは「できごと」が生起する場であるとしたら、そうしたできごとを感受出来る間はそれとともにありたいということである。
「だったら酒やめろよ」という声が聞こえそうである。しかし、酒を嗜むという「できごと」はすでにして私において出来てしまった不可分な現実なのであり、それをやめることは「私というアイディンティティ」を葬ることなのである。それを葬った私はもはや私ではない。
夕日に染まりはじめた芒 「おいでおいで」か「さよなら」か
え?そんなのは屁理屈だって?
まあ、そうかも知れない。しかし、酒をやめろという残酷な現実に対し、酒飲みはそれに抗する万余の屁理屈を用意しうるのも事実なのである。
医院から私の家までは5分とかからない。しかし帰途、散歩をかねていろいろ遠回りをしてしまった。秋の陽はつるべ落としとはよくいったもので、あらぬ事など夢想しながら歩いていたら、自分の影がやたら長くなっているのに気付いた。
子供の頃の遊びの影踏みというのは、考えてみれば夕方の遊びであったことに今さらのように思い至った。
「だいたいにおいて良いです。ただ一点を除いては」
と女医さんが告げるのだが、その一点が問題なのだ。
いわゆる「悪玉コレステロール」が従来より急増しているという。
何年か前にもそういわれたことがある。
「悪玉」と言われるくらいだから悪い奴に違いなく、正義の味方たる私がそれを放置するわけになゆかない。したがってこの間、医師の指導に従い、悪玉と熾烈に戦い続けてきた。
玉子、魚卵、烏賊、甲殻類、貝類、干物、動物性油脂などなどは能う限り慎重に回避してきた。
おかげで、寿司屋に行っても、白身、マグロの赤身、光りもの以外食うものがない。
まあ、私の食べることが出来るものは割合低価格で済むのだが、その代わりひと様といった折などは必ず割り勘負けをする。相手が「トロ、海老の踊り、ウニ、イクラ、アワビ!」などと叫んでいるとき、私はしめ鯖などつつきながら、「すみません、カッパ巻きを下さい」といった有様なのだ。
わらしべを焼く匂いも撮したかった
なぜ私がこれほどの苦行に耐えてきたのかというと、それには深~いわけがある。
それはコレステロールの増減にとってのもうひとつの大敵、アルコールの摂取を聖域として保持したかったからである。早い話が、酒を続けるために食い物の方の制限を甘受してきたわけだ。
にもかかわらず今回のような結果が出たと言うことは、敵は私の迂回作戦を打ち破り、ついに聖域たる本丸にとりかかりつつあるということである。
これは私にとって人生最大級の岐路ともいえるが、問題それ自体は単純である。酒類を慎んで生き長らえるか、それとも命を賭して飲み続けるかである。
柿の紅葉 まだ命が逆らっている
齢70は越えた。しかし、「見るべきものは見つ」などという取り澄ました心境にはない。奥手の私にはまだ見えぬものがたくさんあるし、あるものが見えるとその周辺がなお見たくなったりするのだ。
これは生への執着とはいささか異なるとも思っている。ただ長く生きたいと思っているわけではない。
世界とは「できごと」が生起する場であるとしたら、そうしたできごとを感受出来る間はそれとともにありたいということである。
「だったら酒やめろよ」という声が聞こえそうである。しかし、酒を嗜むという「できごと」はすでにして私において出来てしまった不可分な現実なのであり、それをやめることは「私というアイディンティティ」を葬ることなのである。それを葬った私はもはや私ではない。
夕日に染まりはじめた芒 「おいでおいで」か「さよなら」か
え?そんなのは屁理屈だって?
まあ、そうかも知れない。しかし、酒をやめろという残酷な現実に対し、酒飲みはそれに抗する万余の屁理屈を用意しうるのも事実なのである。
医院から私の家までは5分とかからない。しかし帰途、散歩をかねていろいろ遠回りをしてしまった。秋の陽はつるべ落としとはよくいったもので、あらぬ事など夢想しながら歩いていたら、自分の影がやたら長くなっているのに気付いた。
子供の頃の遊びの影踏みというのは、考えてみれば夕方の遊びであったことに今さらのように思い至った。