ついに四分の三世紀、つまり75年を生きてしまった。
もちろん、この国の平均寿命からしたら珍しくもなんともない。
私がものごころついた頃、この国では多くの人たちが死んだ。
戦地では荒唐無稽ともいえる作戦のなか、無数の兵士たちが戦死した(その中には私の実父もいる)。また、私たちの一つ上の世代は、「神風」というオカルト風の名を冠した「特攻隊」として無謀な死を強要され、その犠牲者のみで6千人にも及ぶ。
沖縄の地上戦で住民をも巻き込んだ大きな犠牲が出たのもこの頃だ。さらに本土でも、激しさを増す空爆の中で一般市民の多数がその骸を晒していた。ヒロシマやナガサキで悪魔の閃光が万余の死をもたらしたのも、むろんこの頃である。
そればかりではない。私たち幼年期にあるものも、死して報国の鬼となれと教育された。通い始めた国民学校も戦時教育一辺倒で、さもなくば警戒警報や空襲警報で逃げ惑う日々であった。
考えてみれば、私がものごころついた時代というのは、歴史上最も多くの日本人が死んだ時代であり、かつまた、日本人が最も多くの近隣諸国の人びとを殺した時代であった。
私はそうした、いわば死が日常化していた時代にこの世界へ参入したのであった。多くの出征兵士たちが歓呼の声に送られて戦場へ向かう一方、すれ違う様に「英霊」と呼ばれる戦死者たちが白い四角い箱に収められて帰ってきた。それに涙することすらはばかられる時代だった。
空襲により大量に死者を出した都市では、その死体は空き地に集められて焼却された。
それよりおよそ10年余ののち、長じた私は、僅かな期間ではあったが、政治的な闘争の世界へ没入したことがあった。それを導いたのはいまにして思うと生硬な理論やイデオロギーであったが、その根底には、幼少時に経験したような死の時代を再び招来してはならないという決意があった。
しかし、悲惨へのアンチ・テーゼがまた別の悲惨を生むという事態の中で、私は無様に立ち尽くしていた。
それ以後の私は、ここに書くのも忌まわしく、思い出せば自己嫌悪の嵐に襲われるような日々を過ごしてきた。無為徒食、怠惰な日常の積み重ね。
確たる道標もなく、いわば思いつき同様にさまざまなことをしてきた。「紆余曲折」を文字通り生きてきたともいえる。
いや、過去形で語ってはなるまい。今もなおそうなのだから。
「四十にして惑わず 五十にして天命を知る」は孔子が自分の一生を語った言葉であるが、私にはまったく当てはまらなかった。
そして孔子はいう。
「七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず」と。
これも私には相当しないであろう。ここまで来た以上は、「心の欲するところ」に従いたいとは思うが、「矩を踰えず」(=人の道を越えない)とはゆくまい。
私の「心の欲するところ」は、おそらく、「人の道」などには収まらないだろうという予感があるからだ。
したがって、安らかな悟りの境地などというのは無縁だとはじめから諦めている。
そんな私だが、孔子を越えた点がひとつだけある。
孔子が74歳でその生涯を終えたのに対し、私は75際に達したということだ。
これから先の抱負などはない。
それを仰々しく語っても、守られるはずはないからだ。
ただ、死が日常だった日々のことは忘れないでいたい。
あ、それから、18回目の初恋でもしようかな。
*写真の説明です。
戦前の写真はここに載せた三枚しかありません。
敗戦後も5年間ほどの間、写真は一切ありません。つまり、疎開している間の数年間は写真などとは縁がなかったのです。田舎ではそんなふうだったのです。
■最初のセーラー服姿のものは、親戚をたらい回しにされていた2歳の頃ですから、養子縁組のお見合い用に撮られたものだと思います。
生後一週間で実母が亡くなり(その意味では私は鬼子です)、貰い手が見つかるまであちこちにいたようですが、もちろん私の記憶にはありません。
この時点では実父は生存していましたが、まもなく戦死しました。
■下の二枚は、国民学校一年生への入学時、大垣の親戚中でいちばん裕福なうちの門前で、たぶんそのうちの好意で写真屋が撮ったものです。
私の「キヲツケ」と敬礼の姿勢に軍事色を見て取れます。
足はかかとを付けて60度に開き、背筋を伸ばして左手はズボンの縫い目に沿ってまっすぐ下へ、そして、右手は指を反らせるようにしてこめかみに当てる。当時この姿勢は、少国民にまで徹底していました。その意味ではナチスの「ハイル・ヒトラー」の敬礼と同様です。
ちなみにこの「キヲツケ」については、ナガサキの被爆後、すでに命をなくした弟を背負ってやってきた「焼き場に立つ少年」をかつて以下のブログで紹介したのですが、その折のこの少年がまさに私も教えられた「キヲツケ」の姿勢を、背中の重荷にも耐えながら懸命に維持しているのを見て、不覚にも涙をこらえることができませんでした。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080901
私の写真に戻ります。肩にかけているのは小型の白いズックのリュックサックで、ランドセルではありません。自慢じゃないですが、私はランドセルというものを背負ったことはありません。ついでながら、幼稚園というところへも行ったことはありません。
■隣は4年ほど前に亡くなった義母ですが、黒いモンペ姿です。この黒い色というのが、せめてもの儀式用だったのだと思います。六の胸の名札にはもちろん名前が書いたありましたが、その裏には血液型が書いてあったと思います。どこで空襲にあって負傷をしてもという備えだったのでしょうが、集中的な都市部での空爆でどれほど役に立ったかは定かではありません。
なお、義父は中国大陸の東北地方、ハルビン郊外のソ満国境付近へ兵役でとられていました。
1945年、父36歳、母30歳、六はまさに6歳の春でした。
もちろん、この国の平均寿命からしたら珍しくもなんともない。
私がものごころついた頃、この国では多くの人たちが死んだ。
戦地では荒唐無稽ともいえる作戦のなか、無数の兵士たちが戦死した(その中には私の実父もいる)。また、私たちの一つ上の世代は、「神風」というオカルト風の名を冠した「特攻隊」として無謀な死を強要され、その犠牲者のみで6千人にも及ぶ。
沖縄の地上戦で住民をも巻き込んだ大きな犠牲が出たのもこの頃だ。さらに本土でも、激しさを増す空爆の中で一般市民の多数がその骸を晒していた。ヒロシマやナガサキで悪魔の閃光が万余の死をもたらしたのも、むろんこの頃である。
そればかりではない。私たち幼年期にあるものも、死して報国の鬼となれと教育された。通い始めた国民学校も戦時教育一辺倒で、さもなくば警戒警報や空襲警報で逃げ惑う日々であった。
考えてみれば、私がものごころついた時代というのは、歴史上最も多くの日本人が死んだ時代であり、かつまた、日本人が最も多くの近隣諸国の人びとを殺した時代であった。
私はそうした、いわば死が日常化していた時代にこの世界へ参入したのであった。多くの出征兵士たちが歓呼の声に送られて戦場へ向かう一方、すれ違う様に「英霊」と呼ばれる戦死者たちが白い四角い箱に収められて帰ってきた。それに涙することすらはばかられる時代だった。
空襲により大量に死者を出した都市では、その死体は空き地に集められて焼却された。
それよりおよそ10年余ののち、長じた私は、僅かな期間ではあったが、政治的な闘争の世界へ没入したことがあった。それを導いたのはいまにして思うと生硬な理論やイデオロギーであったが、その根底には、幼少時に経験したような死の時代を再び招来してはならないという決意があった。
しかし、悲惨へのアンチ・テーゼがまた別の悲惨を生むという事態の中で、私は無様に立ち尽くしていた。
それ以後の私は、ここに書くのも忌まわしく、思い出せば自己嫌悪の嵐に襲われるような日々を過ごしてきた。無為徒食、怠惰な日常の積み重ね。
確たる道標もなく、いわば思いつき同様にさまざまなことをしてきた。「紆余曲折」を文字通り生きてきたともいえる。
いや、過去形で語ってはなるまい。今もなおそうなのだから。
「四十にして惑わず 五十にして天命を知る」は孔子が自分の一生を語った言葉であるが、私にはまったく当てはまらなかった。
そして孔子はいう。
「七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず」と。
これも私には相当しないであろう。ここまで来た以上は、「心の欲するところ」に従いたいとは思うが、「矩を踰えず」(=人の道を越えない)とはゆくまい。
私の「心の欲するところ」は、おそらく、「人の道」などには収まらないだろうという予感があるからだ。
したがって、安らかな悟りの境地などというのは無縁だとはじめから諦めている。
そんな私だが、孔子を越えた点がひとつだけある。
孔子が74歳でその生涯を終えたのに対し、私は75際に達したということだ。
これから先の抱負などはない。
それを仰々しく語っても、守られるはずはないからだ。
ただ、死が日常だった日々のことは忘れないでいたい。
あ、それから、18回目の初恋でもしようかな。
*写真の説明です。
戦前の写真はここに載せた三枚しかありません。
敗戦後も5年間ほどの間、写真は一切ありません。つまり、疎開している間の数年間は写真などとは縁がなかったのです。田舎ではそんなふうだったのです。
■最初のセーラー服姿のものは、親戚をたらい回しにされていた2歳の頃ですから、養子縁組のお見合い用に撮られたものだと思います。
生後一週間で実母が亡くなり(その意味では私は鬼子です)、貰い手が見つかるまであちこちにいたようですが、もちろん私の記憶にはありません。
この時点では実父は生存していましたが、まもなく戦死しました。
■下の二枚は、国民学校一年生への入学時、大垣の親戚中でいちばん裕福なうちの門前で、たぶんそのうちの好意で写真屋が撮ったものです。
私の「キヲツケ」と敬礼の姿勢に軍事色を見て取れます。
足はかかとを付けて60度に開き、背筋を伸ばして左手はズボンの縫い目に沿ってまっすぐ下へ、そして、右手は指を反らせるようにしてこめかみに当てる。当時この姿勢は、少国民にまで徹底していました。その意味ではナチスの「ハイル・ヒトラー」の敬礼と同様です。
ちなみにこの「キヲツケ」については、ナガサキの被爆後、すでに命をなくした弟を背負ってやってきた「焼き場に立つ少年」をかつて以下のブログで紹介したのですが、その折のこの少年がまさに私も教えられた「キヲツケ」の姿勢を、背中の重荷にも耐えながら懸命に維持しているのを見て、不覚にも涙をこらえることができませんでした。
http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080901
私の写真に戻ります。肩にかけているのは小型の白いズックのリュックサックで、ランドセルではありません。自慢じゃないですが、私はランドセルというものを背負ったことはありません。ついでながら、幼稚園というところへも行ったことはありません。
■隣は4年ほど前に亡くなった義母ですが、黒いモンペ姿です。この黒い色というのが、せめてもの儀式用だったのだと思います。六の胸の名札にはもちろん名前が書いたありましたが、その裏には血液型が書いてあったと思います。どこで空襲にあって負傷をしてもという備えだったのでしょうが、集中的な都市部での空爆でどれほど役に立ったかは定かではありません。
なお、義父は中国大陸の東北地方、ハルビン郊外のソ満国境付近へ兵役でとられていました。
1945年、父36歳、母30歳、六はまさに6歳の春でした。