今年の2月は、1日おまけがあるからそれを消費する意味でも映画を観に行った。正確に言えば映画と言うよりもアキ・カウリスマキを観にいったといったほうがいいかもしれない。もう何年も前だったろうか、、彼は引退を表明した。あの独特の画面がもう見られないのかという思いを覚えている。その彼が、改めて映画を作ったというのだからそれはやはり見るしかない。しかも、2月のおまけ29日だ。
カウリスマキのファンなら、目隠しをして連れて行っても、5分もその画面を見ている間にそれがカウリスマキの映画だということに気がつくだろう。彼の画面は余計なものをそぎ落とし、セリフも決して饒舌に過ぎることはない 。 映像と出演者の表情と佇まいがその全てを語っていく。付随的に音楽が使用されるが、その使用の仕方も いわゆる映画音楽を超えた独特のものである。
冒頭近くラジオから流れるのは「竹田の子守唄」だし、昔懐かしい「マンボ・イタリアーノ」が演奏されるかと思うと、カラオケでシューベルトの「セレナード」が朗々と歌い上げられるといった具合だ。
カウリスマキのファンなら、目隠しをして連れて行っても、5分もその画面を見ている間にそれがカウリスマキの映画だということに気がつくだろう。彼の画面は余計なものをそぎ落とし、セリフも決して饒舌に過ぎることはない 。 映像と出演者の表情と佇まいがその全てを語っていく。付随的に音楽が使用されるが、その使用の仕方も いわゆる映画音楽を超えた独特のものである。
冒頭近くラジオから流れるのは「竹田の子守唄」だし、昔懐かしい「マンボ・イタリアーノ」が演奏されるかと思うと、カラオケでシューベルトの「セレナード」が朗々と歌い上げられるといった具合だ。
前置きはともかくとして、映画の内容は一見変哲のない 中年の男女の恋愛物語である。 彼らがなぜ惹かれあったのかなどの余分な説明はいっさいない。カラオケバーでのふとした出会いというしかない。その二人がどうしようとしているのかの説明もない。
しかし、その二人の共通点といえばコスパやタイパを重視する「有為な」世界でお互いに疎外されているということだ。女性は、勤務先のスーパーで賞味期限切れで廃棄するものを食料を乞う人に与えたことで馘になるし、男性もまたその隠れた飲酒で馘首される。
いって見れば、そうした「有為な」世界から疎外された「無為な」男女の出会いと言うほかは無い。
そうした有為と無為を際立たせるのは、二人がつけるラジオで絶え間なく流れる ロシアとウクライナの戦争についての情報がである。これぞまさに、経済、軍事、国家、同盟などなど「有為」の極限で行われているこの時代の確固たる現実である。
この「有為な現実」と、二人の恋愛劇の並列こそこの映画の骨格をなしている。
もちろん、無為とはいえそこにはささやかな(が本人同士にとってはただならぬ)ドラマがあり、事態は進む。
そしてそのラストシーン、二人がカウリスマキおなじみの愛犬「チャップリン」とともに歩くシーンのバックにはシャンソン「枯れ葉」が流れる。
カウリスマキのラストシーンの歌としては、私などは『ラヴィ・ド・ボエーム』(1992年)のあの「雪の降る町を」の哀愁に満ちた調べを思い出すが、この『枯れ葉』での歌は、本場フランスのそれよりかなり明るい表情で歌われる。もちろんそれは、映画の内容と呼応している。
*ここで用いた「有為」・「無為」という言葉は、哲学者たちが使うそれ、例えばモーリス・ブランショのそれやナンシーの『無為の共同体』などでの概念とは異なるが、多少、かすめるものはあるかもしれない。