ゴルバチョフが亡くなった。その評価はいろいろあるが、彼の前世紀末の世界史的変遷で果たした役割に比べれば、先ごろ亡くなった安倍なんてのは蚤の糞ほどの重みもない軽薄なカルトの手先であったに過ぎない。(ああ、それを国葬!なんとこの国の卑小で節操の無さよ!)
以下は、私がはじめて海外旅行に旅立ち、しかも最初に降り立った異国の飛行場・モスクワでの様子を、当時記したものだ。そして、それはゴルバチョフとのニアミスの瞬間だったのだ。
語句の不自然な点を補正した以外は、基本的にはそのまま載せることとする。
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1991年8月21日、私の乗った飛行機は、モスクワ空港の滑走路の上にいた。
モスクワ郊外の森と湖、それに農地のモザイクのような光景を眼下にしながら、ここへ降り立ったのだった。
その機はチューリッヒ行きであったが、ここで2時間ほどトランジットがあり、空港内ではあるが降りることが出来ることになっていた。
私にとっては始めての海外旅行で、従って始めて踏む他国の地であった。
養父のシベリア抑留体験、若い頃からの私の社会主義とのさまざまな因縁などを含めて、その地に足跡を記すのは何か運命的にも思われた。
しかも、折から、何かと話題の渦中にあるソ連である。
つい先日も、クーデターがあり、黒海地方に夏期休暇に出かけたゴルバチョフが反動派に幽閉されたというニュースが世界を駆けめぐったが、エリツィンなどの工作により一応の収束を見たことまでは成田で確認済みであった。
さあ、降りるぞ!それっ、売店だ、ウオッカだ、と私の気ははやるのだった。
ああ、それなのに、期待は無惨にも裏切られた。
機内アナウンスがあり、ソ連当局から、機外へでる許可が下りないので、そのまま座席にて出航をお待ち下さいとのこと。
そういわれて、仕方なく窓の限られた視界から外に目をやると、やはり何やら不穏な空気がみなぎっているではないか。
機関銃とおぼしきものを装備した装甲車や、完全武装した兵士たちが要所要所を固めているのだ。それらの兵士が、時折、機に接近してきて様子を窺ったりする。
もはや気分はウオッカではない。ここはやはり、争乱のまっただ中なのだ。
遠くに目をやると、すらりと伸びた白樺の並木が見渡せるのだが、それをバックに武装した兵士たちが行き交うのはやはり異様だ。
機内に緊張感が漂う。みなひそひそと言葉を交わすのみだ。
やがて機は、予定より30分早く離陸した。
離陸と同時に緊張が緩み、ホッとしたものが感じられた。
さっきまで、あれほどこの地に足跡をと思っていたのに、全く皮肉なものである。
これはあとで知ったのだが、この日、黒海付近に幽閉されていたゴルバチョフが、モスクワへ帰るためこの空港へ降りるというので、空港全体が厳戒態勢のうちにあったのだ。ひょっとしたら、私たちが待機させられた瞬間にも、ゴルバチョフはここに降り立ったかも知れないのだ。
私はその折りの自分の軽薄さと、そして、にもかかわらず、その後の天国のような10日間の旅をいささか後ろめたく思い起こす。
そう、私は、チューリッヒで乗り換えてオーストリアへ入り、モーツアルト没後200年祭に沸くウィーンとザルツブルグで、昼は散策、夜はコンサートやオペラという至福の時間を過ごしたのだった。
何という落差であろう。機関銃とモーツアルトは似合わない(そういえば、『セーラー服と機関銃』という映画があった)。
私が音楽を楽しんでいる間も、ソ連の崩壊はもはや留まるところを知らず、その年の暮れには、クレムリンから赤旗が降ろされ、ソビエト連邦そのものが消滅した。
後日、NHK・BSハイビジョンで、「エリツィンとゴルバチョフ~ソ連邦崩壊・当事者が語る激動の記録」と題した2時間のドキュメンタリーを観た。
それを観ながら、その現場をかすめたこと、そしてその後の至福の時間を思い出し、改めて自責の念やら、訳の分からない胸キュンなどを感じたのであった。
時の流れは速い。それから十数年ほど経った頃、機会があってハンガリーへ行ったのだが、社会主義の「社」の字も見あたらず、若い人達は1956年の対ソ動乱や、当時の指導者、イムレ・ナジについても知るところはなかった。
1991年8月21日は、私が世界史をかすめた日である。それとも、世界史が・・。