ノーベル文学賞受賞者のカズオ・イシグロが脚本を担当したという黒澤明の『生きる』(1952年)のリメイク版イギリス映画(2022年)を観た。
黒澤の作品の公開時、私は中学2年生だったから、観てはいない。その後、成人してからどこかの二番館で観ているし、TVで放送したものも観ているが、それらも、もう何十年か前の話で詳細は覚えてはいない。
しかし、このリメイク版を見た限り、そんなに大きな変更はなく、むしろ、黒澤のものに忠実といっていいかもしれない。
観たあとで、改めて黒澤版の記録を調べてみたが、その全体の構成、登場するエピソードなどほとんど変更されずに描かれている。舞台は1953年のイギリスだが、そのテーマは共通している。
映画の内容にも触れることになるが、ここにある問いは半年後の死を宣告された地方公務員の主人公が、どのような「生」を意識的に選び取るのかということで、その意味では、死に直面した人間が選ぶべき「本来性」としての己の生を説くハイデガーにも通じる重い課題だが、それを抽象的な生ではなく、これまで過ごしてきた役所での自分自身の官僚的な対応で先延ばしにしてきた仕事のひとつに見出し、それに自分のすべてを賭けてゆくところに現実性がある。
また、それについては、彼に先立ってお役所仕事から飛び立ち、厳しい現実のなかでめげずに生きる若い女性、マーガレット(エイミー・ルー・ウッド)との再会も大きな意味をもつ。というのは、飲む、打つ、買うの頽落のなかを漂っていた彼がそこから浮上する際、ハイデガー的な「本来性の探求」、つまり民族や大地といった観念的なものにとらわれることなく(その結果としてハイデガーはナチス的な全体性に付け込まれてゆくのだが)、市民的な日常性のなかに、そしてそこでの「活動」に自分の終の棲家を見出してゆく契機が、彼女との改めての出会いであったと思われるからだ。
ここまでは黒澤版とリメイク版との共通点について述べてきたが、リメイクである以上まったく同じではない。私が気づいた違いは以下の二点であり、それぞれ、黒澤版の記憶をもつ人には無視できない点であろう。
そのひとつは、主人公の風貌の選択である。これは脚本での参加以上に、むしろプロヂューサー的にこの映画に関わったカズオ・イシグロの指示によるものだというが、黒澤版の志村喬に対し、同じ日本映画の巨匠、小津安二郎組の常連、笠智衆風の主人公をということで、選ばれたのがリメイク版の主人公ウィルアムズを演じるビル・ナイだということだ。
確かに、志村喬にはその二年後の『七人の侍』でもみられるように、精悍でエネルギーに溢れた感が伴う。『生きる』に出た折にも、黒澤から少し減量することを命じられたという。
黒澤同様、小津にも通じていたイシグロは、その辺を思い切って主役の風貌を別途選択する道を選んだといえる。やや精悍な感じから、背中で語るようなイメージへと。それはおそらく成功したのだろう。
もうひとつの違いは、大げさにいえば、『生きる』を観たことがない人でも知っている主人公が自分が完成させた公園のブランコに揺れながら歌う「ゴンドラの唄」が、リメイク版では採用されず、スコットランド民謡の「ナナカマドの木」が使われていることである。それについてもイシグロは明確に語っている。
「命短し、恋せよ乙女・・・・」で始まるこの歌は、映画のテーマに対してあまりにも直截的すぎると。「ナナカマドの木」は、主人公が酔って酒場で歌う折にすでに示されているように、彼に先立って亡くなった彼の妻がスコットランドの出身で、よく歌っていたということのようで、郷愁を誘う歌として選ばれたようだ。
ちなみに、イシグロの妻もスコットランドの出身だという。
映画のテーマはあくまでも主人公の「生きる」ことについてなのだが、それを取り巻くお役所の官僚制的な、まさにお役所仕事によってたらい回しにされる住民の要求という状況設定が大きな意味をもっている。
主人公の命がけの仕事ぶりをその葬儀の席で知ったお役所仲間たちが、彼の功績に習って真摯な勤務を誓い合いながら、その翌日からの仕事において、相変わらずの官僚制縦割り社会の中にどっぷり浸っていることが、揶揄されて映画は終わる。
1950年代を象徴するかのようなあまりくっきりさせない、少しざらついたような画像の質も、この時代と映画の内容にマッチしていて良かったと思う。
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