今日は四月五日、私の子供の頃は伊奈波神社を中心とした春の岐阜祭りであった。今はそれに近い日曜日に道三祭りとして行っているようだ。そして四月三日は、天満宮を中心とした加納祭りであった。ともに結構盛大だった。
なぜ、この二つの祭りを並んで取り上げたかというと、加納というのも同じ岐阜市でありながら、かつては祭りを別にしていたからである。
というのは、岐阜市というのはもともと、井ノ口村だった場所に信長が居を定めた折、岐阜に地名を改め、明治に至り岐阜町と呼ばれていた地域と、その南部の加納藩であり中山道の宿場町であった加納宿が前身の加納町とが南北からくっついてできた市なのである。その境界はおおよそ、現在のJR東海道線に沿っている。
私の子供の頃、この二つの地域の合併という痕跡はまだ残っていた。戦時中の疎開地から岐阜へ戻ったとき、私の住まいは加納地域であったが、私の意識としてはあくまでも岐阜のなかの加納ということであった。しかし、年寄りたちは違っていた。
こんな会話は、けっこう日常的にあった。
「おまはん、どこへいきんさるな?」
「わっちかな。ちょっと用があって岐阜までだがな」
その頃(4分の3世紀前)、老人たちにとっては、私のように「岐阜のなかの加納」ではなく、あくまでも「岐阜と加納」だったのである。
冒頭に述べたように、その頃、岐阜祭りと加納祭りがそれぞれ別の日に行われていたのはそうした背景があったからである。しかしこの分離は、私たち加納の子どもにとってはありがたかった。というのは、四月三日には加納祭りを存分に楽しみ、五日にはまた岐阜祭りを楽しむために市の中心部へ出かけることができたからだ。隣接した二つの祭りを楽しむことができたのである。
しかし、岐阜側の子どもたちは、そうした加納の子どもの特権を見逃さなかった。
当時は休みの日でも、制服制帽が多かったから(そもそもみんな貧しくその他の服などはなかった)、その徽章を見ればどこの学校かも分かってしまった。
だから、加納の子を見つけると、岐阜の子が寄ってきて排除しようとするのだった。
「お前らの祭りはもう終わったんじゃろ。こっちの祭りには来るな!」
と、いうわけである。
この言い分には意地悪もあるが、それなりの合理性もある。事実、私たち加納の子は、
「俺たちはいいよなぁ、両方の祭りが楽しめるのだから」
と、思っていたのだから。
まあ、そんなことを考慮してではないだろうが、今日では岐阜祭りも加納祭りも統一され、しかもその日取りもそれに近い日曜日に移されている。
それはそれで合理的なのかもしれないが、それぞれの祭りの起源に係る時間的アウラのようなものが奪われ、「祭り」ではない「行事」にへと変更されたことを意味する。
国の祝日についても、近年はその祭日の起源(成人の日は「元服式」の一月一五日、体育の日は最初の東京五輪の開会の日十月一〇日などなど)とは関係なく、近隣の休日と抱き合わせにされるケースが多い。
ただし、そうした起源のアウラを凛として守り、決してその日を移動させない一連の祝日がある。答えを言ってしまえば、それは天皇家関連の祝日である。勤労感謝の日も不動ではないかという反論があるかもしれない。しかし、この十一月二三日は戦前の新嘗祭といって、もとはといえば天皇家の行事なのである。
結論としていうならば、天皇家の行事はその起源のアウラを損なうことなく不動である。
「天皇は神聖にして侵すべからず」の帝国憲法の精神は今も生きている。
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