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【読書ノート】『PACHINKO パチンコ』 必勝法ではありません。

2021-06-10 01:01:54 | 書評

 『PACHINKO パチンコ』(ミン・ジン・リー 訳:池田真紀子)文藝春秋社

 上・下巻、合わせて七〇〇ページ余の大河小説である。登場人物は四代にわたるコリアンの家族とその周辺の人々。時代背景は一九一〇年、日本が朝鮮を併合した年を起点に一九八九年に至るまで約八〇年にわたる。
 私の生まれた年、一九三八年のノーベル文学賞をとり、私が高校生の時に読んだパール・バックの『大地』を思わせる大河小説である。
 『大地』が中国大陸を舞台にしていたのに対し、『PACHINKO パチンコ』の舞台は当初、釜山・影島(プサン・ヨンド)に始まり、しばらくして日本に移る。ようするに在日コリアンの人々の物語である。

 作者は、コリアン系のアメリカ人女性で、学生時代に、在日コリアンについての特別講義を聞いて以来、それが念頭を離れず、それらをテーマにした短編などを書いていたが、彼女の連れ合いが転勤でともに日本に住むことになり、それを機会に数十人の在日コリアンから取材をし、これまでの知識の足らざる点、偏りなどを修正しつつ、この長編を仕上げたという。

         

 その内容であるが、それが実に面白い。ストーリー展開も波乱に富み、ときには読み手の意図をプイと裏切ったりして進む。寝食を惜しんでというか、つい明け方の三時過ぎまで読んでしまったこともあった。
 
 上巻を読み終えた段階で、不思議なことに気づいた。タイトルが『パチンコ』であるにも関わらず、パチンコの話がまったく出てこないのだ。私の記憶では、上巻三五〇ペジほどのうち、たった一度だけ、しかも単なる一般的な名詞として出てくるのみで、それ自身、タイトルとはなんの関わりもないのだ。
 在日コリアンの人のうち、南北を問わず、パチンコ業界と縁の深い人が多いという一般常識があるので、たぶんそれに触れた展開になるだろうという読み手の思惑は完全にはぐらかされる。

 ただし、これはあくまでも上巻のみで、下巻に入るやアレヤコレヤとするうちにすべてがパチンコ業界に飲み込まれたように事態は進む。
 にも関わらず、それは登場人物たちの活計(たずき)の道に過ぎないのだが、一方、それが在日コリアンによって選択される所以についての示唆もあるように思う。

 これら物語の展開の時代背景として、朝鮮時代の日本統治の問題、戦前の在日への特高警察の弾圧(実質の主人公、ソンジャの夫の牧師は、その仲間が神社崇拝の折、キリスト教の祈りをつぶやいていたのを咎められ、それとの連座として捕らえられ、釈放された折は、死の寸前であった)、戦後も続く制度上の差別(外国人登録証明書発行時の指紋押捺や諸権利の制限)、さらには社会全般にある日常的な差別や排斥の動きなどなどが厳然とあるのだが、しかし、著者は、それについての悲憤や慷慨をあえて述べ立てることはせず、あたかもそれらが自然的条件であるかのように物語は淡々と進む。
 
 登場人物たちも、それへの抗議や抵抗を試みるのではなく、その厄災が自分の身に降りかからないような生き方をひたすら模索して生きてゆく。その意味では、いわゆるプロパガンダ的な叙述は避け、ひたすらリアルな選択による登場人物の日常を記しているといってよい。

         

 しかし、この事実は、こうした背景に対し、作者がニュートラルであるということでは決してない。この著作の動機が、在日であることによるいじめで自死した少年のエピソードであったと語る作者の立場からは、実際にはそれは許されざる事態なのだ。

 著者の立ち位置は、その第三部のエピグラフ(題辞)としてつけた、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』からの一ページほどの長い引用に如実に示されているとみていいだろう。
 「国民の定義を次のように提案しよう。国民とは想像の政治共同体である」ではじまり、「この共属意識のゆえに、過去二世紀のあいだ、何百万、何千万という人々が、そのように限定的な想像の産物のもとで殺し合ってきた、というよりも、自らの命を捧げてきたのだ」で結ばれるその引用は、主として日本という国民国家や、単一民族としての日本人の意識を、単なる想像の産物として退けている。

 それのみか、その射程は、日本と在日、日本と朝鮮半島の歴史とあり方をさらに超えて、国民国家や民族に内在する想像=共同幻想にまで及んでいることがわかる。
 ただし、先にみたように著者は、小説のなかでそれを声高に叫ぶことはしない。
 「想像の共同体」の「共属意識」が、対外的は抑圧や排斥、差別として作用すること、それはこの小説の通奏低音として鳴っているに過ぎない。
 
 大河小説の常として登場人物は複数にわたり、そのそれぞれへの興味は尽きないが、ソンジャが亡き夫の墓に詣でるしんみりしたラストシーンに接するとき、彼女が少女時代を過ごした故郷(コヒャン)、釜山・影島(プサン・ヨンド)を離れ、一九三三年に日本に渡って以降の在日コリアンの長い歴史がそこにあったことをあらためて彼女とともに想起するのであった。

本書の構成は以下の通り。
 第一部 故郷(コヒャン)  1910年~1933年
 第二部 母国  1939年~1962年
 第三部 パチンコ  1962年~1989年

《付記》文体も奇をてらわず読みやすく、そのストーリー展開もとても面白い。うまく脚色し、映画にしたら、アカデミー賞ものだろう。


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