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自由への道は血塗られていた 『地下鉄道』(コルソン・ホワイトヘッド)を読む

2021-05-13 02:00:07 | 書評

 『地下鉄道』は、アメリカ、コルソン・ホワイトヘッド の小説である。この小説を読んだのは、彼の作品『ニッケル・ボーイズ』に感銘を受けたからである。実はこの『地下鉄道』 の方が前に書かれた作品で、私の場合は『ニッケルボーイズ』から遡ってこんな小説を書く人は 、他にはどんな作品を書いているんだろうかと興味を持ったからである。

              

 『ニッケル・ボーイズ』について衝撃的だったのはその内容もさることながら、この小説の舞台、ニッケル校のモデルになった少年院が、前世紀の中頃過ぎまで実在したということであった。ということは、私たちが先の戦争に敗北し、 アメリカ占領軍が経て、民主主義や基本的人権の洗礼を受けたその時点において、アメリカの本国においては、かくも凄惨な黒人差別が堂々と存続していたということなのだ。
 なお、『ニッケル・ボーイズ』についてはすでに先々月のこのブログに その感想などを書いている。以下を参照されたい。
  https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210322

 この『地下鉄道』のほうはさらに100年以上遡る南北戦争直前、19世紀の中頃以前のアメリカ南部が舞台である。
 当時アメリカは奴隷制廃止に傾いている北部と、奴隷制に固執する南部との対立が明確になり始めた頃であったが、奴隷制度は緩和されることなく、その凄惨な度合を保っていた。

             

 この小説は、そうした南部の綿花農園に育った黒人少女の逃避行の物語である。 そしてそれを援助するのは「地下鉄道」と呼ばれる秘密機関で、逃亡奴隷たちを安全な北部へ移送することを事業内容としていた。
 したがってこれは実際の鉄道ではないのだけれど、作者はそれを実際に地下道を走る蒸気機関車の線路網として描写し、この凄惨極まりない物語に幾分SF的な要素を持ち込んでいる。

 主人公の黒人少女 コーラは、 この地下鉄道を頼りに逃亡を図るのだがその行程は楽ではない。というのは、実際の援助組織がそうであるように、この列車も一路北部へ通じているわけではなく、行く先々で一定期間の停滞があった後、次の列車に乗る機会を待たなければならないのである。

          

 したがって、その足踏みの間にも、 賞金稼ぎ=奴隷ハンターの手が回る可能性があるのである。実際、彼女は何度もその危機に襲われ、実際にその手に落ちたこともある。
 このハンターたちは、残忍そのもので、邪魔をするもの、捕らえても採算に合わない者の顔面に銃を押し当て、平気でその引鉄を引く。

 その過程はまさにスリリングであるが、危機に陥るのは、コーラのように追われる者ばかりではない。彼女たちを助ける地下鉄道の組織の傘下にある人々もまた、見つかり次第なぶり殺しとも言われるような悲惨な最期を迎える。 事実、彼女と逃亡を共にしたり、その手助けをした人たちがこの作品の中では何人も血祭りに挙げられている。

             

 奴隷たちの扱いはまさに胸くそが悪くなるほど凄惨なのだが、逃亡奴隷を見つけたハンターたちは、それを殺戮することなく、「持ち主」のところへ届け、賞金をせしめる。ただしこれは、逃亡奴隷の命を保証するものではない。 奴隷たちは家畜以下の扱いにしか過ぎないのだ。

 もし家畜が逃亡するならば、見つけ次第それは 元の持ち主の元へ収容されて事態は収まる。ただし、逃亡奴隷の場合はそうではない。彼らのほとんどは、他の奴隷が集められたその衆目のなかで、残忍極まりない損傷を与え続け、なぶり殺しの刑に処せられる。
 家畜も 奴隷も持ち主にとっては商品であることには関わりないが、奴隷の場合は、その逃亡者にできるだけ残虐な処罰を与え、それを見せることによって、その他の奴隷たちの逃亡の意欲そのものを削ぐことができるのだ。

 主人公コーラは、これでやっと救われたかと思うシーンが何度もあるのだが、その都度新たな危機に見舞われ、その最後まで予断を許さない。
 ここに描かれているのは、レイシズムということすらおこがましいようなまさに鬼畜の行為ともいうべきだが、 ただしこれは、すでに過ぎ去ったことではない。その後遺症のようなものは、アメリカにおいては、南北戦争における北軍の勝利、奴隷解放宣言などを経て、さらには前世紀中盤の公民権運動等を経た後にも、なおかつ目を覆いたくなるような事象が絶えないのは。まさに近年のBLM運動が示すところである。

          

 もちろんこれはアメリカのみの問題ではない。人間を人間として扱わない行為は、前世紀には、ナチズムにおけるユダヤ人大量虐殺、日本軍による周辺諸国民に対する残虐行為、ソビエト連邦内における人民の敵に対する凄惨な粛清行為などなどがあったし、そして今なお、紛争地域においては民族浄化的な動きが絶えない。 そうした歴史上の、あるいは現実のさまざまな事柄に目を凝らすとき、自分自身がその同じ人類であることに ある種の戦慄を覚えざるを得ない。もちろんこれは、自分がそうならない保証が決してないという深淵を思うからである。

 最近、さまざまな意味で、人間というものは誕生しない方が良いのだという思想が広がりつつあると聞く。もちろんこの命題は、 人間が生存していると言う現実の上で、初めて主張できるという意味で、自己言及的な矛盾を抱えているが、そうしたことを主張したくなる状況そのものはわからないではない。
 
 人は、単純に性善説、性悪説に分けることはできない。 つまり人間は、状況次第によっては容易に鬼畜になり得るということである。それでは、自らが鬼畜にならず、また、人を鬼畜にしないことは可能なのだろうか。そのためには、何が必要なのだろうか。
 
 人が鬼畜になる構造や状況を知り得た者たちが、そうした構造や基軸になる状況そのもの実現を防止する営為を日常的に積み重ねるという「未完の努力、未完の過程」の継続でしかありえないのではないか。
 歴史にはここが到達点などという地点はありえない。私たちは、その過程のなかで、許される最良のものを選択しながら生きてゆくほかはない。
 そうした折、優れた文芸作品は、私たちの知らない他なる出来ごとの多様性を指し示してくれる。

          

 この小説を読み続ける間、私の頭のなかでは、下に貼り付けたビリー・ホリディ歌うところの「Strange Fruit」が鳴り響いていた。
 南部の樹々に吊るされた奇妙で異様な「黒い」フルーツ・・・・。
 英語と、日本語の訳詞を載せておく。

https://www.youtube.com/watch?v=Web007rzSOI


Strange Fruit

Southern trees bear strange fruit,

Blood on the leaves and blood at the root,

Black bodies swinging in the southern breeze,

Strange fruit hanging from the poplar trees.

Pastoral scene of the gallant south,

The bulging eyes and the twisted mouth,

Scent of magnolias, sweet and fresh,

Then the sudden smell of burning flesh.

Here is fruit for the crows to pluck,

For the rain to gather, for the wind to suck,

For the sun to rot, for the trees to drop,

Here is a strange and bitter crop.

奇妙な果実(Strange Fruit:訳詞)

南部の木は、奇妙な実を付ける

葉は血を流れ、根には血が滴る

黒い体は南部の風に揺れる

奇妙な果実がポプラの木々に垂れている

勇敢な南部(the gallant south)ののどかな風景、

膨らんだ眼と歪んだ口、

マグノリア(モクレン)の香りは甘くて新鮮

すると、突然に肉の焼ける臭い

カラスに啄ばまれる果実がここにある

雨に曝され、風に煽られ

日差しに腐り、木々に落ちる

奇妙で惨めな作物がここにある。



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