沖縄の旅も三日目、いよいよ最終行程である。
当初からの私の希望であった沖縄平和祈念公園へと向かう。
「記念」ではなく、「祈念」であることに注意されたい。凄惨な戦禍を経験してきて、今なお準戦場のような軍事基地が遍在する沖縄にとって、「記念」すべき「平和」などありはしない。ただただ、来たるべき平和の実現を「祈念」するのみなのだ。
この地図の上は東であり、海岸に面した台地となっている
この公園は糸満市米須霊域、ひめゆりの塔などと並んで沖縄戦跡国定公園を形成し、その中核となるものである。
公園内の諸施設については写真を見ながら順次触れていきたい。
なお、なぜここにこの公園があるかについては、Wikiによれば以下である。
1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻するアメリカ軍、避難してきた一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。結果、狭隘な地形に敵味方が入り乱れる大混戦となり、日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了。
ようするにこの地こそ、沖縄戦最大の激戦地であり、その終焉の地なのである。毎年、6月23日に、沖縄慰霊祭がこの地で行われるのはそうした歴史に基づく。
ガジュマルの大木がその威容を誇る傍らの駐車場からスタートする。
まずは、摩文仁(まぶに)の丘の沖縄戦没者墓苑に向かう。ここではその墓苑の石碑を取り巻くように、各県別の出身者のための慰霊施設が、それぞれの県の特徴をもった慰霊碑やモニュメントとして立ち並ぶ。
各県のものを紹介していたらきりがないので、わが岐阜県のそれを紹介しておこう。わりとスッキリしたデザインのものである。
ついで、毎年、慰霊祭が行われる平和の丘を中心とした式典広場へと向かう。ほとんど毎年、TVでその式典を見るのだが、近年は安倍首相の決まりきった形通りで無内容な式辞、とりわけ、従来の日本語の意味を逆転させた「沖縄県民に寄り添って」=「県民の民意を無視するばかりか、強権でもってそれを踏みにじる」に、参加の島民から激しいブーイングと「帰れ」コールが起こるに至っている。
その慰霊碑の前で、持参したロウソクに火を点じ、祈りを捧げようとしたのだが、折からの浜からの風で、うまくゆかない。ここではロウソク抜きで鎮魂の祈りを捧げる。
ついで向かったのは沖縄平和祈念堂。ここでは堂の前の手水鉢風のモニュメントにロウソクを立てることができた。
なお、この祈念堂の傍らには、当時の朝鮮半島から動員された人や在日の人たちのための韓国人慰霊塔があり、韓国旗がはためいていた。
祈念堂と韓国ゾーンを隔てる辺りには、色とりどりの花が咲き乱れ、アオスジアゲハが数頭、ヒレホロと舞い遊んでいた。
次は、公園の東端、陽光にきらめく海を見渡せる場所にある平和の火を扇状に囲むように設置された「平和の礎」へと向かう。
ここには、沖縄戦などで亡くなった人々、国籍や軍人、民間人の区別なく、すべての人々の氏名を刻印した黒い花崗岩の石版が、屏風のように立ち並んでいる。
そこに刻まれた人の数は25万人弱で、今なお、新たに判明した分が追加刻印されているとのことである。
沖縄県人の箇所には、当然のことながら、沖縄独自の姓がずらりと並び、ここがまさに戦場であったことが忍ばれる。
米兵のそれ、朝鮮半島の人々のそれもある。
案内してくださった沖縄在住のOさんが、検索をしたらご自分の親戚筋に当たる方の銘があったといってその箇所に案内してくれた。
最後に向かったのが、沖縄県平和祈念資料館。
弧を描くような建物なのだが、その屋根の部分が、沖縄風の赤瓦で葺かれているのが美しい。
なかには、沖縄戦の模様などを遺留品や証言、映像などで紹介する常設展示場があり、戦中戦後の沖縄の歴史を具体的に知るための貴重な資料集といえる。
なお、常設展の他に、折々の企画展もあり、写真に収めたのは、鉄の造形作家・武田美通氏の「戦死者たちからのメッセージ」という、まさにそれをズバリ表現した展示作品のうちの一部である。
この資料館には展望塔があって、そこからは公園全体はむろん、この東岸を洗う美ら海が遠望できる。
こんなに平和で美しすぎるようなまさにこの地が、血で血を洗う戦場であったこと、そして無数の屍が横たわった場所だとはにわかには信じがたいほどである。
しかし、まさにそれが歴史の現実であったし、基地の島・沖縄は、いまなおその歴史をひきずり、軍事の要点であることから免れてはいない。
沖縄の戦後は終わってはいない。そればかりか、新たな基地すら押し付けられようとしているのだ。
公園内には、修学旅行と思われる学生たちのグループが散見できた。
若者たちよ、ここで見たり体験したことを決して忘れることなく、この悲劇の再来に最大限敏感になってほしい。それは他でもない、君たち自身の未来を平和のうちに過ごせるようにすることなのだから。
沖縄にとっての最大の悲劇が生じた折、私はすでにこの世に生を受けていて、沖縄陥落を知っていた。そして、いよいよ本土決戦だと言い聞かされていた。
しかし、その手前で敗戦が決した。その意味では、この私の命は、沖縄を防御の盾として永らえられたのかもしれない。
私の沖縄への旅が、贖罪と鎮魂を含むものであらねばならないと自身に言い聞かせていたのはそれがゆえである。
今回、沖縄訪問に際しては、その思いを汲み取ってくれ、適切な案内をしてくれた沖縄在住のOさん、それに、私の勝手な要求に理解を示し、付き合ってくれたS夫妻に心から礼をいいたい。
さらにいい添えるなら、沖縄の風景、風物も充分楽しんだし、何よりも日頃はネット上での付き合いしかないあなたたちと、濃厚で楽しいリアルな時間を過ごせたことは望外の幸せだった。多謝あるのみだ。