大津市の義仲寺は狭い境内ながら、いろいろな要素がギュッと詰まっていることはすでに書いた。
木曽(源)義仲と巴御前の墓、そして芭蕉の遺体が埋葬された墓などがその中心だが、その他にも見どころがかなりある。境内見取り図を載せておくので、参照しながら読まれたい。
本堂は朝日堂という。これは、平家物語などで義仲が「朝日将軍」などと呼ばれたことによる。
それと向かい合わせの無名庵は、義仲を慕う芭蕉がたびたび訪れた際、宿舎にしていたところで、しばしばここで句会を催したりした。その伝統は今にいたり、寺はここを句会の場として開放している。
翁堂の翁は芭蕉を指し、正面に芭蕉の坐像、周囲に弟子たちの像や画像が安置されている。ここで見るべきは、伊藤若冲が描いた天井画、四季花卉の図である。
また、境内には、芭蕉の行く春を近江の人と惜しみけるや、辞世の句、旅に病んで夢は枯野をかけ廻るをはじめ、その弟子たちも含めた20の句碑が点在し、その所在は境内見取り図の丸囲みの数字が相当する。
境内の突き当りまで至って、まあ、こんなところかなと踵を返そうとした私の目に、ん?という墓石が飛び込んできた。どこかで聞いた名前ではないかと近寄り、やはりそうだと確認することができた。
墓碑面に曰く、「保田與重郎墓」とある。
戦中戦後にかけて文芸評論の面で活躍した日本浪曼派の柱とのいうべきあの保田與重郎の墓である。その存在は、寺のパンフにも書かれていないし、私の予習にもなかったので意外であった。
慌てて、まだ境内にいた住職に訪ねた。
「あの保田與重郎墓って、あの保田與重郎の墓ですね」
と、いささか同義反復的な問いを投げかけた。
「そうですよ」という住職に、
「どうして、彼の墓がここに?」
と、畳みかける私への住職の答えはざっとこうだった。
いささか荒れていたこの寺の、昭和大改修(1976年)の折、いろいろ力を貸してくれたのが当時、京都に住んでいた保田與重郎であったという。そこで、その功績に鑑み、その死後、分骨をしてもらってここに墓を建立したのだそうだ。
ここで、当の保田與重郎(1910-1981年)について述べるべきだろうが、彼の著作の一端に触れたのはもう60年近い前で、完全に忘却の彼方だ。
ただ彼の概略を記せば、マルクス主義者として出発しつつも、ドイツロマン派への傾倒を経て、近代文明批判と日本古典主義へと至り、以後、日本浪曼派の重鎮として文芸評論の場で活躍した。
ただし、その論評が戦争を肯定し、その戦線拡大に組みしたのではないかということで、戦後、1948年から60年まで、公職から追放されている。
その論功行賞は、一筋縄ではゆかぬものがあり、浅学の私にはしかと断定することはできない。
彼の影響は、三島由紀夫などにも至り、また現今の近代批判、近代の超克観にも、意識するとせざるとに関わらず、少なからずの陰影をもたらしているものと思われる。
義仲・・・・芭蕉・・・・保田と並べてみると、日本的美意識のある面がほのみえる気もする。見逃さなくてよかった。