以下は私自身の体験からみえてきた実状の報告である。
今月の初め、年に一回は罹る喉風邪の前兆があって行きつけのクリニックへいった。いつもなら医師が、「ハイ、口を開けて。あ、やはり喉が腫れていますね」と視診をするのだが、コロナ禍のせいでそれもなく、医師も私もマスクを着用したまま。
そして、「それではいつもの喉の薬を出しておきましょう」といい、同時にコロナ関連のパンフを渡し、「何かいつもと変わった症状が続くようでしたらこちらへ連絡してください」と保健所の所在と電話番号を渡された。
私が違和感を覚えたのはその折であった。
私に渡された保健所の所在は、同じ岐阜市でも六~七キロ離れた箇所で、私の家から徒歩で一〇分ほどの岐阜南保健所とは違う箇所だったからである。
「先生、南保健所ではダメなんですか」という問いに、医師は、「南保健所はとっくになくなっていますよ。今、岐阜市の保健所はここだけです」とのこと。
これは意外であった。かつて岐阜市には中央のそれを始め、東西南北と数箇所以上の保健所が実在したのであった。
帰宅してネットで各地のそれを調べたところ、どこも統廃合が進んだ結果、全国の保健所数は二分の一以下に減少していることがわかった。
いわゆる行政改革の結果が至らしめたところである。
名古屋市は一応、各区に一保健所はある。東京都もそうだ。
ひどいのは大阪市で、人口270万人の大都市にも関わらず保健所の数はわずか一箇所なのだ。維新主導の行政改革がいかに凄まじいものであったかがみてとれる。
これにはおまけがあって、つい先般、コロナ禍に関して松井大阪市長が、「公的医療機関の充実が必要」とTVで力説しているのをみた。オイオイ、それをぶち壊したのはあんただろうと思わず毒づいた次第である。
保健所は今、検査の要請が殺到しててんやわんやだと報じられている。その多忙ぶりが感染者の発見を遅らせる要因になっていることもじゅうぶん考えられる。そしてそれが、医療崩壊の一因になっているとしたら、行政改革のもたらしたものは今一度検証されなけらばならない。
これと並んで公的医療機関の行革による減少は、市民病院などの公営病院の統廃合や民営化にもみられる。市を名乗りながら市民病院をもたない市もかなりある。遠く離れた民営病院への業務委託という名目で、行革による民営化が進み、各地の公立病院が潰された結果である。
今回のコロナ禍にみられるような広範な感染症への対応の場合、採算にとらわれない公的医療機関の果たすべき役割は実に大きい。
日常的には、たしかにそれらは投下した資金に対する見返りは少ないかもしれない。しかし、これら保険衛生に関する地域医療は空気や水同様、その住民にとっての必要不可欠なインフラであり、経済効率では図り得ない必要不可欠なものなのだ。
もちろんその存続を前提としたある種の合理化は必要だろう。しかし、たとえ赤字でも、その存続自体は、まったく正しい税の使い方なのである。
私は、自身の疑似コロナ体験から、近くの保健所が消えたことを知った。そして、この行革や民営化による公的医療機関の劇的減少が、医療崩壊の一つの要因たりうるのではないかと思っている。
私自身についていうならば、喉の痛みが発生してより二週間以上が経過し、その症状は消え、その他の兆候もみられないが、このご時世、どこでどうなるかはわからないと思っている。