全く別の勉強をしていて、大塚楠緒子の詩に突き当たった。
名前は聞いたことがある程度の知識しかない。それもゴシップめいた話で、夏目漱石が密かに恋していた女性(かもしれない)ということであった。
その詩に出会ったことで少し検索してみたら、彼女は1875~1910年と、わずか35年でその生涯を閉じたという。
しかし、この間に10編以上の小説と二冊の短編集を上梓し、ゴーリキーの翻訳をしたり、文学活動の他には絵画やピアノ演奏にもその才能を発揮している。
その死の報に接して、漱石の詠んだ句は以下である。
あるほどの菊投げ入れよ棺の中
で、私の出会った彼女の詩であるが、それは以下のようなものである。
お百度詣で
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を思へども
三足ふたたび夫思う 女心に咎ありや
朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし 人は此の世に只ひとり
かくて御国と我夫と いづれ重しととはれなば
ただ答へずに泣かんのみ お百度詣ああ咎あり
読んでわかるのは、国家への忠誠を要求するナショナリズムと、夫への愛の板挟みとなった女性の詩だということで、ここでは建前と本音が隠蔽されることなく素直に並列され、詠われている。
作られたのは1905年の日露戦争の終盤で、その前年には、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」も作られている。
明治も終わりにさしかかったこの時期、帝国憲法はもちろん機能していたが、その運用はまだまだ緩やかであったといってよい。
条文では、天皇は神格化されていたが、その解釈では美濃部達吉の「天皇機関説」が公式に認められ、立憲君主風の雰囲気が残る余地があった。
しかし、大正期をすぎて、美濃部の学説が不敬であるとされ、憲法解釈がオカルティックになり天皇神格化の度合いが増るにつれ、状況は一変する。
治安維持法の厳密な適応、特高警察や憲兵の闊歩の中で、帝国憲法下で許された僅かな自由もすべて埋め立てられ、軍事一色に染め上げられてゆく。
主義者と目された者たちの検挙
おそらく、与謝野晶子や大塚楠緒子の詩が、もう30年あとに作られていたら、彼女たちは非国民として大炎上し、袋叩きになったことだろう。
大塚楠緒子の時代はまだ、建前と本音との両面を詠うことができた。しかし、昭和10年代以降は、建前以外を口にすることはできなかったのだ。
出征兵士に、「無事で帰れ」とは決して言えず、「死んでこい=逝ってこい」といい、戦死者を悼み悲しむことはできず、立派に戦ったと寿ぐことが要求された。
建前の怒号のみが行き交うなか、戦争への傾斜はもはや留まることをしらず、悲惨と凄惨の縁へとまっしぐらに転落してゆくのであった。
そんな時代に私は産まれた。