久しぶりにスッキリと晴れた土曜日、地域のサークルの人たちと長良川鉄道に乗る小旅行にでかけた。
まずは車で関駅に集合し、その駐車場に車を置いて、一日乗り放題のフリー切符(2,700円)を買う。これで、美濃太田から北濃まで、72.2キロの間、どこまで行っても、何度乗り降りしても自由。
まずは一挙に北上して北農まで行き、途中下車しながら散策する予定だったが、時刻表の都合上、すぐ近くの美濃市行きに乗り、その駅の周辺で時間を潰し、次の美濃白鳥行きを待つことに。
美濃市駅は、美濃市の中心街、あの卯建のある街並みからもけっこう離れた寂しいところにある。
チャギントン・ラッピング車両 車内もきれいだが乗らなかったので写真はなし
少し待って、美濃白鳥行きに乗る。土地の人でないと、これを「しらとり」と読んでしまうが、正解は「しろとり」である。
ついでに長良川鉄道の38の駅名で、ほかに難読に属するものは二つあり、それが並んでいる。「母野=はんの」、「木尾=こんの」がそれだ。
左は長良川水系もっとも上流の酒蔵「元文」 美濃白鳥にて
白鳥では、街なかを少し歩き、奥美濃大橋を渡って長良河畔の西側へ至る。ここで国道158号線沿いにある道の駅「清流の里しろとり」内の「そば工房 源助さん」でやや早い昼食。
ザル蕎麦と鮎ご飯のセットメニュー(1,100円)をいただく。蕎麦も鮎ご飯も美味しかった。がっついていたので、写真を撮るのを忘れた。
白鳥付近にて 秋の陽光に長良川の川面がキラキラ輝いてた
その後、川沿いの道を北上し、川の風情やそこに溶け込むように鮎釣りをする人たちを眺めながら、今度は上流の白鳥橋で東岸に戻り、白鳥駅に戻る。
そこからいよいよ終点の北濃を目指す。
単線のため待ち合わせ 向こう側は全国初の乗客と宅急便の混載車両
ここは実は、終点であって終点ではない。というのは、この長良川鉄道、かつては国鉄の越美南線といって、高山線の美濃太田を起点としこの北濃に至っていたが、それが最終的な終点ではなく、ここを経由して福井県側へ至り、福井市の越前花堂駅を起点として南下し九頭竜湖駅に至っている越美北線と連結し、全線で越美線として、岐阜県側と福井県側を結ぶ大動脈となる予定だったのだ。
それが、戦争の激化などと重なり、1934年、未通区間20キロほどを残して中断され、戦後、落ち着いて工事再開が可能な頃には、モータリゼーションの到来で鉄道需要は減退し、工事中止が決定されたという次第。
その後、越美南線として美濃太田‐北濃間で運用されていたが、国鉄の路線合理化の過程で廃線候補になるなか、1986年、三セクの長良川鉄道に移管が決定し、現在に至っている。
社内風景 左は鯉のぼりは吉田川を利用した郡上本染をシートにデザインしたもの
なお、このローカルな路線、国鉄の蒸気機関車が走っていた時代に、何度も利用したことがあるだけに懐かしい。というのは、父の故郷が、美濃白鳥からは油坂峠、北農からは桧峠を越えて福井県側へ行った山あいの集落にあり、そこへ行くためだった。
最初に行ったのは小学校3年の夏で、やっとシベリアから復員した父の帰郷のためだった。1947年当時、この旅は長く過酷なものだった。その経路はこうだ。
まず当時住んでいた大垣の郊外から、美濃赤坂線で荒尾駅から大垣駅へ、そこで東海道線に乗り換え岐阜へ、岐阜から高山線で美濃太田へ、そこで越美南線に乗り換え美濃白鳥へ、そこからは国鉄バスで油坂峠経由で今の九頭竜湖駅近くの朝日へ、そこから父の集落へは石徹白川沿いに数キロ行かねばならないが、公の交通機関はなかったので歩きはじめる。幸い、トラックが通りかかったので、家族一同、その荷台へ乗せてもらう。当時この辺りの、公共交通機関がない道路では、トラックなどは歩行者の要請に応じて乗せてやることが不文律だったようだ。
北濃駅前の長良川 水量が少なくなってきてる
そして、ようやく父の生家に着いたのはさしもの長い夏の日が、とっぷり暮れる頃だった。大垣を発ったのが早朝だったから、12時間以上を要したことになる。今なら、車で2時間ほどで行けるのにである。
電話をして迎えに来てもらえばいいじゃないかと考えるのは現代人。当時は、携帯はおろか電話がない家庭もいっぱいあり、自家用車などはよほどのお金持ちしか持ってはいなかった。
父の生家のある集落には、まだ電気も来ておらず、ランプによる生活だった。
話が大きくそれた。
そんなわけで、北濃は正真正銘終着駅である。車止めがあり、それから先へ鉄路は見えるものの、もはや自然に任せるままになっている。
見ものは、転車台が残っていることで、蒸気機関車の場合、これで機関車の方向を180度変えたのだ。
私どもの他にも、何人かの鉄ちゃんたちが、それぞれカメラを構えていた。
北農からUターンで南下し、途中郡上八幡で下車し、自由行動だったので私は好きな河畔を散策し、長良川と吉田川の合流点付近まで歩いた。
よく歩いたので、足が痙攣する。これでは帰途の車の運転に差し支えるので、早めに駅まで引き返し、ひたすら足のマッサージ。
衰えたものだ。
上左は吉田川鉄橋を渡る長良川鉄道 右は長良川(奥から)と吉田川(右から)の出会い
下はその出会いの下手の長良川の風貌
それで一言。
今後よろしく。
真下教授が渓流釣りをなさっていたとは知りませんでした。私は30代から40代の約20年間、よく渓に通いました。石徹白は、亡父の故郷に近かったため、支流を含めてよく行きました。
お尋ねの久保田さんとおっしゃる方、残念ながら存じ上げません。
今後とも、よろしく。
最も通った渓は郡上の吉田川、寒水と三重県は大杉谷の北、宮川ダムに流れ込む大和谷川だったと思います。九頭竜の西では打波川、滝波川にも行ったことがあります。ここ20年ほど行ってないけど、死ぬ前にもう一度行きたいもの。
吉田川も変わったでしょうね。
これからも良い写真を見せて下さい。
アマゴやイワナの顔を見るべく、毎週のように土か日に寒水川に通った時期がありました。その時に、人にとっての自然がどれだけ人生の価値かが分かった気がしました。朝焼けは生きていく勇気をくれるようだし、夕焼けは「ご苦労様」と言ってくれるようだというよりもずっと強く、僕の喜びになっています。