六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

世の中、一寸先は闇なのです。

2009-07-15 00:58:46 | よしなしごと
 夕食を済ませ、アイス・コーヒーなど飲みながら、ざっと目を通しておいた夕刊の再読をはじめたときです。
 突然、目の前が真っ暗になりました。ついていたテレビも消えてすべてが闇の中です。
 
  あらあら、停電なんて珍しいことだと思って窓から外を見て慌てました。
 停電ではありません。真っ暗なのは我が家のみで、あちこちの家々は煌々と電灯が点いているのです。
 ようするに、我が家のブレーカーが落ちたのです。

  慌てて立ち上がった拍子に、アイス・コーヒーをひっくり返しました。
 雑巾、雑巾といったところで、その在処も分かりません。
 とにかくあり合わせのもので適当に始末をして、ブレーカーのボックスに向かいました。

  メインのスイッチをオンにしてもダメです。
 いろいろいじっていてもラチがあきません。
 中部電力へ電話をすることにしました。
 これが一苦労。
 電話帳は何とか探り当てたのですが、字が読めません。
 ガレージへ行き、車のエンジンをかけ、ライトを付けました。
 そこへ電話帳を突き付けるようにして番号を読み取りました。

  電話をします。担当の人が出てきます。
 携帯でその指示に従いながら操作を行います。
 12個あるサブのスイッチをすべてOFFにしてからメインをONにし、しかる後にサブをひとつずつONにしてゆきます。
 ようするに、どの機器、ないしは回線が原因かの犯人捜しです。

  

  こう書くと簡単そうですが、携帯片手に、ほとんど手探り状態でこれらの操作を行うのはなかなか大変です。
 やっと犯人への手がかりを突き止めました。
 六個が二列に並んだサブスイッチの下の列の左から三番目です。
 そこにはなんの表示もありません。
 
  ですから、それが何かはひとつひとつの電化製品に当たってみるほかないのです。
 TVはOK、電子レンジもOKといった具合に実物に当たっての点検です。
 分かりました、犯人は冷蔵庫でした。
 といっても、まだそう決めつけるわけにはゆきません。
 冷蔵庫への配線が問題なのか、冷蔵庫自体が問題かを確かめねばなりません。

  延長コードを持ってきて、別のコンセントから冷蔵庫へ繋ぎました。
 やはりとびます。
 ここで犯人は確定です。

  次は対策です。
 ったって、なにもありません。
 中部電力はそこまで面倒は見てくれません。
 そこから先は、メーカーかディーラーの分野です。

  しかし、いろいろもたついていたこともあって、もはや10時近くなっています。
 念のため、ディーラーへ電話したのですがやはり繋がりません。
 結論として、明日まで待つ以外なさそうです。
 明日になったからといって即解決というわけにはゆかないでしょう。
 ああ、どれだけの食品が助かり、どれだけのものが憤死するのでしょうか。

  

  もはや、文明の利器にすっかり頼り切った私たちの生活、その生活に反省を促し、その利便性がなにがしかの理由で覆るとき、まさに私たちの生活の一寸先は闇であるという事実を知らしめるために、時折こうしたアクシデントが襲うのでしょうか。
 
  電気や水などいわゆるインフラは、あって当然のごとく思われています。
 しかし、これとて、整備されたのはそれほど前ではありません。
 戦争はこれらをズタズタにし、何日も電気や水のない日がありました。
 また、私の父の故郷のような山村では、電気が来たのは1950年前後でした。

  世界の貧困地帯でも、それらはまだまだ整備されてはいません。
 されてはいても、今なお続く戦火の中で、日々損傷を受けているところもあります。
 また、十分整備されていながら、それを利用できない貧困層もいます。
 前世紀末以来、世界の各地で燻っている問題に、水道の民営化というものがあります。
 フランスやイギリスの巨大企業が、世界市場を対象とし、その推進を図っています。まさに、ウオーター・ビジネスです。
 日本でも、水道の民営化は検討の対象とされています。

  たかがブレーカーがとんだという話からまさにとんでもない話になりましたが、ことほどさように、世の中の一寸先は、そして私たちの一寸先も闇だということなのです。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書かれなかった日記の断片

2009-07-14 02:08:40 | 音楽を聴く
 岐阜駅近辺にて
 
                ひとをまつひと

 
             みずのこいしいきせつに

 
 岐阜サラマンカホール開館15周年記念・演奏会から
  スペイン・ビルバオ交響楽団 指揮:ファンホ・メナ
    
 
                 開演前

<プログラム> 
 
  グリーディ
   サルスエラ「農場」から 第2幕への前奏曲

  サラサーテ
   カルメン幻想曲
     ヴァイオリン:南 紫音

  ファリャ
   バレエ「三角帽子」組曲 第1&第2

  ロドリーゴ
   アランフェス協奏曲
     ギター:荘村清志

  ラヴェル
   ボレロ

 
 のりのいい楽しい演奏会でした。
 全体にスペイン臭がプンプンのプログラムですね。
 これはこのサラマンカホールが、岐阜県とスペイン・サラマンカ市との友好交流のなかで建設され開館してから15周年を迎えるにあたっての記念プログラムのひとつだからです。
 その経緯は、下のようです。
 (サラマンカホール、ホームページからの引用)


   ===============================

 岐阜県とスペイン・サラマンカ市との友好交流は、「鳴らずのオルガン」と呼ばれていたサラマンカ大聖堂のパイプオルガンがオルガン建造家・故辻宏氏の手で修復され、これに岐阜県が協力したことから始まりました。
 この交流から、3つのシンボルが誕生しました。一つは「サラマンカ」の名を冠したホールです。「サラマンカ」には“町の麓に川のあるところ、浅瀬を見渡す町”という意味があり、清流長良川のほとりにある当ホールは、まさに「サラマンカ」のホールです。
 二つ目は、当ホールに設置されているサラマンカ大聖堂のオルガンの見事な複製です。日本初のスペイン様式のオルガンと言えます。
 三つ目は、三体の石造レリーフです。モチーフとなったサラマンカ大学と大聖堂の正面入口の石彫りは、銀細工のように華麗で繊細なプラテレスコ(銀細工)様式の代表作です。
 石材も現地と同じビジャマジョール石を用い、当ホールの正面を華やかに彩ることとなりました。

 サラマンカ市は、マドリットから北西へ約200km、イベリア半島の高原地帯に位置するカスティーリャ・イ・レオン州サラマンカ県の県都で、サラマンカ大学をはじめ、市内に2つの大学を有する学園都市です。
 町の起源は紀元前217年にさかのぼり、16世紀に最盛期を迎えますが、ユネスコ世界文化遺産に登録されている旧市街には、その頃の歴史的建造物が数多く見られ、小ローマとも呼ばれています。
 また、町の中をトルメス川が流れ、清流長良川を有する岐阜の姿に重なるところがあります。
 プラテレスコ(銀細工)様式の歴史的建築物が夕陽で金色に輝く時間は、街全体が黄金色に染まり、訪問者をしばし中世の世界に誘います。
 そして陽気で話し好きな人々は、サッカーや闘牛を愛し、バル(酒場)は楽しいおしゃべりで溢れかえります。
 また、サラマンカっ子は大の散歩好きで中心地マヨール広場は昼夜を問わず賑わいを見せます。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デリダのTシャツ

2009-07-13 01:39:40 | 現代思想
     

     若い人たちとの勉強会に出かけた。
     メンバーの一人がデリダのTシャツを着てきた。
     なかなか良いではないか。

     
 
     タッチラインの向こうにはなにもないのだろうか。

     それにしても、勉強のテーマに合わせたTシャツを着てきくる
     なんて、なかなか憎いことをする。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もういくつ寝ると・・・そう、覚めない眠りへ

2009-07-12 03:16:44 | よしなしごと
 写真はいずれも岐阜市役所近辺です。

 今年は親しかったり、過去親しんだりした人との別れが多いのです。
 月一ぐらいの頻度でお葬式や訃報に接します。
 出費も馬鹿になりません(コラッ、金の話はするなっ)。

 これはまあ、当然の話で、こちらが齢を重ねるにつけ、その知己との別れも増えるわけです。そしてそれは、確実に私自身もそちらへと追い込まれていることを意味します。

 
     そうか、この市の歴史の半分以上をここで生きてきたんだ

 「人間は誰しも死ぬということにおいて平等なのだ」と訳知り顔でいっていたくせに、そうした平等からは今しばらく逃れていたいと思ったりするのですから勝手なものです。
 もともと私は弱虫ですから、「死をも恐れず」とは容易に言えません。
 過去には、そう決意したこともあったのですが、やはり膝頭が震えました。
 まあひとつには、そうしたことをいう人々が結果として「他人の死をも恐れず(顧みず)」に堕してきたのを見てきたということもあります。

 そんな私ですから、最近は、新聞などでの訃報の読み方も変わって来ました。
 かつては、「え?あいつまだ生きてたの?」などと生意気なことをいっていましたが、今はとてもそんな不遜なことは言えません。

     
             岐阜の街のシンボルですね

 まず、享年を見ます。
 自分よりかなり年上だと、指折り数えて、「後○○年あるじゃん」と少し安心します。
 自分より少し上だと、「もうあまり残されていないじゃん」と少し焦ります。
 自分と同い年だと、「オイオイ、そんなに慌てて逝くなよ」と不安がつのります。
 自分より若かったりすると、「なに?私が生きてるのはもうお釣りなの?」という気になります。

 次いで、死因を見ます。
 事故死だと、「ああ、私も気をつけなくっちゃ」と思います。
 どこそこの病気だというと、「そういえば私もどこそこが悪かった」と不安になります。
 自殺だったりすると、「そうか、その選択肢もあるなぁ」などと、そう簡単にはできもしないくせに思うのです。
 人知れず死んでいたなどというと、「う~ん、それも悪くないかも」などと強がりをいったりしますが、いざその段になると、必死で誰かに助けを求めるに決まっているのです。

 
           岐阜城の石垣のレプリカでしょうか

 なんか情けないことを書いていますね。
 明日は若い人たちとの哲学のお勉強会で、下調べをまとめたり、未読の資料に目を通さなければならないのに。
 そして、何より、途中で居眠りをしないためにもう寝なければならないのに。

 人は死ぬことにおいて平等だというのは事実でしょう。
 でも私は、人は生まれるということ、生まれたということにおいて平等であることを基礎にした女性哲学者の思考の方がより生産的だと思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああ、そはなにゆえ隠れ咲きたもうや・・・

2009-07-10 18:28:04 | 写真とおしゃべり
 梅雨はまだ粘っている。
 図書館へ行き、借りたい本を検索した。
 二冊あったのだが、その二冊とも貸し出し中だという。
 両方ともちょっと特殊な本で、そんなにリクエストがあろうとは思えない。
 それも二冊揃ってないとは、こんなことは初めてだ。
 私の趣向が一般的になってしまったのだろう。

 母の病院へ回る。
 比較的高い病室から見る梅雨空は重々しくも威嚇的ですらある。
 室内の白っぽさとの対比でなおさら威圧的に垂れている感がある。

 

 帰途寄り道をして、最近見つけた蓮根畑(6月26日付の日記参照)に開花の模様を見に行く。

 あった。一本、ひょんと目立つように立派なつぼみが突っ立っている。
 先がほんのり色づいて開花が近いことを思わせる。
 蓮の花が開くとき、ポンという音がするというが本当だろうか?
 とりあえずこのつぼみをカメラに収めて帰ろうとした。

 

 そのときである、何か目の端にピンク色のものがよぎった。
 もう一度振り向いてその辺りをじっくり眺めてみた。
 なんということだ、すでにしっかり開いた花があったのだ。
 しかしそれは、大きな葉陰に隠れるように咲いていて、ある角度からでないと見えないのだ。

 なんという意地の悪い・・・。
 この花をちゃんと撮そうとすると、蓮根畑のなかに入っていって、邪魔な葉を除けて撮るほかはない。
 そのためには、腰までのゴム長が要る。

    

 その辺を右往左往して、一番よく花が見えるアングルを見つける。
 それが上の写真である。
 よく見えないところにあると余計見たくなるから不思議だ。
 何もここから教訓を引き出そうとするわけではない。
 
 いずれにしても花は、私に見せようとして咲くわけではないから、仕方あるまい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ジェットコースター」と「鐘の音」の7・9

2009-07-09 11:52:01 | 歴史を考える
 これを書いているとき、あちこちの寺院から鐘の音が聞こえています。
 お寺さんが撞くのみならず、一般市民も参加して撞いているようです。

 「今日はなんの日?」で調べると、今日7月9日は、1955(昭和30)年、後楽園遊園地に日本で始めてジェットコースターが設置されたのを記念して「ジェットコースターの日」になっているようです。
 しかし、このジェットコースターの日に、遠く離れた岐阜の地で鐘が撞かれるはずがありません。

 それとは関係なく、今日は1945(昭和20)年に岐阜市が大空襲に遭った日なのです。
 すでに3月10日の東京大空襲をはじめ、全国の都市部がほとんど無防備のまま、米軍の空爆に曝されていました。軍事施設や工場の被害もさることながら、木と紙と土で出来た当時の民家はあっという間に延焼し、どこの都市へ行っても、その焼け跡には鉄筋のものがわずかにその残骸をとどめているのに対し、一般の民家はブルドーザーでならしたようにすべて崩れ去っているのでした。

       
                  柳ヶ瀬付近

 岐阜の街も例外ではありませんでした。
 7月9日、飛来したB29など135機が、午後11時過ぎから夜半にかけて、抵抗らしい抵抗もない岐阜の上空を縦横無尽に飛び回り、街々を焼き尽くしたのでした。
 結果としてこの空襲は、死者約900人、焼失した家屋20,000戸、被災者10万人(市民の約60%)という被害をもたらすものでとなりました。
 こうして岐阜の街は、後日、私が目撃するように、きわめてわずかな鉄筋の建造物の残骸を除いて、大きな熊手で掻きならしたように一面の焼け野原となったのです。

       
                  徹明町付近
 
 正直にいって、私はその頃、大垣郊外に疎開していて直接この空襲を体験してはいません。しかし、空襲警報で避難した箇所から、「ああ、岐阜が燃えている!」という大人たちの悲鳴に近い嘆きとともに、十数キロ離れた東の空が真っ赤に染まるのを見ていました。一面真っ赤な空なのですが、さらに何かが爆発炎上するのか、急にその一角がパッと明るくなったり、そのまましばらく仕掛け花火のように揺らいだりしていました。
 上空で時折ぴかっと光るのは、攻撃目標を明確にするための照明弾だったと思います。
 
 こうして、つい昨年まで私が住んでいた街が、紅蓮の炎に染まるのを見ていたのですが、その下で展開されていた地獄絵図を思い描くにはまだ幼い私ではありました。
 しかし、程なくして私たち自身がそれを体験したのでした。

 
                 炎上する岐阜中心部


 岐阜空襲の二十日後の7月29日、今度は私の疎開地である大垣が空襲に遭いました。私の住んでいたところは、大垣市といってもかなり郊外でしたから大丈夫だと思っていたのですが、それが甘かったのです。
 近くの紡績工場が軍需工場に変身していたのを米軍はお見通しだったのです。

 爆弾が、焼夷弾が私たちに襲いかかりました。
 私たちの防空壕は、祖父の知恵で、竹藪の下に横穴のようにして掘られていました。結果としてこれがよかったのです。防空壕のすぐ近くの畑に1トン爆弾が落ちました。大量の土砂が防空壕を襲い、その入り口はほとんど塞がれたのですが、入り組んだ竹の根に守られた天井は若干の土砂を落下させたものの崩落することはなく、入り口の土砂を掻き分け這い出して九死に一生を得たのでした。

 その折りの爆弾の跡は、直径10メートルもあろうかという大きな穴として残り、やがて底の方に水が貯まって、埋め戻す余裕が出来るまではちょっとした池の様相を呈していました。
 私の疎開先の八畳一間の掘っ立て小屋は焼夷弾の飛び火でで半焼の目に遭いました。消火のための水がないというので、近くの肥だめの糞尿をかけて消したため、その強烈な匂いがしばらくは残りました。
 これを専門用語で「やけくそ」というのだそうです。

 大垣市の戦災記録によりますと、<全半壊家屋:約4,900戸 罹災者:約30,000人>とありますが、私も統計的にはその一角を占めているわけです。
 そして、その一週間後、十日後には、この無差別爆撃は、広島、長崎への原爆投下へと至るのです。

 鐘の音がまだ続いています。
 こうした人類の愚行はいくら責めても責めきれないでしょうね。
 
 
               現在の岐阜中心部
 
 しかし、すべてが終了したのではありません。
 今なお、世界の三分の一は戦場だといわれています。そうしたなかで、国際貢献という名の下に、日本の軍隊も公然と海外へ出る機会が増えました。
 かつての戦争で、私たちは被害者であると同時に加害者であったように、またもやそうした関係のなかに捕らわれるのではという危惧もあります。
 とりわけ若い世代のなかには、戦争をゲーム感覚でしか捉えることが出来ず、何かというと「ソレ行ケドンドン」と軍事的手段を煽るむきがあります。

 自分たちの父祖がどのような思いで戦争に対峙し、どのような悲惨を被ったかを、あるいはどのように悲惨をもたらしたかを、その実像に立ち返って考えて欲しいものだと思います。


モノクロの写真は「岐阜平和通信」のページからお借りしました。
 なお、以前にもこれに関連した記事を掲載しています。ご参照下さい。
   http://pub.ne.jp/rokumon/?cat_id=60706&page=3

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅れてきた七夕と「お金が欲しい!」

2009-07-08 15:03:13 | よしなしごと
 さしたる願い事もしないうちに七夕が終わってしまった。
 この年になって、将来に対し集約できるような願い事というのはほとんどない。
 雑多な願望はもちろんあるのだが、それらはかえって的が絞りにくい。
 もともとは単なる不定愁訴のようなものだからまとまったりはしないのだ。
 それに願ったらどうにかなるのかという長年のシニカルな思いも染みついてしまっている。

 

 私も目撃したことがあるし、誰かもそれを嘆いていたが、小学生ぐらいで七夕の短冊に「お金が欲しい」と書く子がいる。
 何とも夢がないと嘆息するのは分からぬでもないが、果たしてそうだろうか。
 ひとはいろいろな願いを持つが、そのうち半分ぐらい、あるいはそれ以上はお金で解決できるかも知れないのだ。

 

 「健康は金では買えない」というが果たしてそうか?
 「家族円満」や「友情」「進学」「安全」なども金に左右されないであろうか。
 確かに金よりも価値があるものがあるかも知れない。しかし皮肉なことに、それを手に入れるのに金が要るというのが現実なのである。

 だとすると、「お金が欲しい」と書く子はきわめてリアルなのであり、それを嘆くのは筋違いかも知れない。むしろ、そうした世の中を作ってきたことを嘆くべきではないか。
 とはいえ、これも少しばかり反省すればいいというほど簡単な問題でもない。

    

 近々選挙があるようだ。
 ことによったら政権の変動があるかも知れないという。
 しかし、それによってもたらされるのは、タックス・ペイアーのにとってより合理的な還元が行われるぐらいの変動であろうと思われる(それ自身大変なことだし、それを評価しないわけではない)。
 それによっては、すべてが貨幣価値に換算され、それに基づいて人の運命が左右されるというこの大状況自体は変わらないであろう。

 

 この大状況は、政権の行方や、あるいは政治のシステムなどを越えた問題として、人が言語や貨幣を用い始めて以来の文明史的レベルの問題だからである。
 そんなことを考えると、現況においては「お金が欲しい」はごく自然で素直な願い事であり、それを越えようとするような願望は笹の葉に吊すにはいささか重すぎるというべきかも知れない。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ディア・ドクター』と鶴瓶と八千草薫

2009-07-07 02:42:54 | 映画評論
 あの『ゆれる』を撮った西川和美監督の最近作だというので観に行った。
 あの作品での香川照之とオダギリジョーの絡みは抜群であった。

 で、今回の作品の主演は笑福亭鶴瓶だという。
 どうしてだろうと思った。
 お笑い芸人を馬鹿にしているわけではない。
 ましてや鶴瓶は、裸でふざけ回っているような芸人ではない。
 にもかかわらずなぜ鶴瓶かという疑問は残った。
 それほど前作の印象、とりわけラストの二人の絡みが印象に残っていたからだろう。

         

 映画を語る常として、見ていない人にネタバレはよくないと思う。
 だから詳細は書かないが、やはり鶴瓶で正解だと思った。
 シリアス一本槍でも、ふざけすぎてもいけない役どころなのだ。
 それをそつなく演じていた。
 TVなどでの匂いをうまく消していたのも好感が持てる。

 もうひとつ私を満足させたのは八千草薫の出演であった。
 パッとした華やかさはないが、散りそうで安易には散らない芯を持ったひとである。
 その台詞回しもゆったりとしていていい。
 永遠のマドンナといっては言い過ぎだろうか。やや控えめな笑顔がすばらしい。

           

 この八千草薫と鶴瓶の絡みがまたいい。
 ある種エロティックでもあり、嫉妬したくなるくらいなのである。

 映画評論的にはいろいろ言えるだろう。
 地域医療の問題が云々侃々、冷たい本物より暖かい偽物・・・などなど。
 確かにそれもあろう。
 というか、監督にはその志向が強いのかも知れない。
 しかし、私にはこれは鶴瓶と八千草薫の恋愛物語に見えた。
 だから私は嫉妬したのだ。

 ラストシーンの八千草薫の嬉しそうな表情は、私の嫉妬心をいやが上にも燃え立たせるのだった。

          

八千草薫主演『蝶々夫人』(1955年)を当時観ています。
 日伊合作で、イタリアで撮影されました。
 もちろん主役の蝶々夫人は八千草薫で、今から半世紀以上前の初々しい蝶々さんでした。口パクではなく本人の歌だったらということですが、それは望むべくもないでしょう。
 そのとき、実際に歌っていたのはイタリアのソプラノ歌手、オリエッタ・モスクッチイという人だそうです。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「瓢箪から駒」ならぬ彼女の想い出

2009-07-05 04:04:11 | 想い出を掘り起こす
 母の病院へ行ってから街の中心、柳ヶ瀬へ行く用事が出来た。
 ぐる~っと回ってうちまで帰るとたぶん十数キロの距離になる。梅雨の切れ目でかんかん照りだし、どうしようかと迷ったがやはり自転車で行くことにした。街中での駐車は大変だし、私のような道草小僧にとっては自転車が好都合なのだ。

 母の病院から街中へは滅多に通らない道だ。それでも以前通ったことのない細い道を選び続けた。生まれて初めて通る道というのにはなにがしか感慨がある。この道を通ってから死ぬのと、通らずに死ぬのでは私の人生は異なるのではあるまいか。

 

 なんて理屈っぽいことを考え、また実際に感じながら見知らぬ道を通っていたら、あったのだ、それが。
 こんな都市郊外には珍しい瓢箪の畑があったのだ。まだ若い瓢箪たちが涼しげな色合いで並んでぶら下がっている。
 若いそれらは、思ったよりも深い産毛で覆われている。
 まだ花のものもあったが、そのもとにはすでに小さな瓢箪が鎮座している。

 六も歩けば瓢箪に当たるだと、小躍りせんばかりにカメラに収めた。
 しかし、カメラを構えながらもなにやらひっかかるものがあり、それが記憶の底でうずくのだ。
 なんだったのだろう。この切なくもうら悲しさを誘う思い出は・・・。
 ウッ、そうだ、あれだったのだ。
 瓢箪を巡る思い出が一挙にこみ上げてきた。

    

 もう寄り道どころではない、急いで所用を済ませ、うちへと自転車を駆った。そして、もう何年も見ていない本箱の隅の空間を開けてみた。あった、それはそこに、幾分汚れたといえ、間違いなくあったのだ。

 私は生まれて一度だけ、生の瓢箪からいわゆる器としての瓢箪を作ったことがある。
 細かいことは忘れたが、狭い入り口から、曲げた針金を差し入れ、根気よく実や種を取り出し、乾燥させて作る、それをやったことがあるのだ。
 もう、20年近くも前だが、そのとき作った瓢箪がちゃんとあったのだ。
 それだけなら「切なくもうら悲しき」もなんでもない単なる体験に過ぎない。
 この話には一人の女性が絡んでいるのだ。
 実はその瓢箪を持ってきて、その作り方を伝授してくれたのがその女性だったのだ。

 

 その折り、私は居酒屋をやっていた。そして彼女は常連さんで、20年以上にわたって私の店へ通ってくれた。
 彼女はキャバレーのホステスさんであった。キャバレーといっても今様のそれではなく、かつてのグランドキャバレーであった。
 宮崎は延岡出身の彼女は、気っぷの良いホステスさんであったが、一方、読書家であり、かつ絵画が好きで、休日には美術館巡りが趣味であった。

 そんな彼女があるとき、まだ青い瓢箪を持ってきたのだ。
 「マスター、これ作らんとね。けっこう面白かよ」
 といったかどうかはともかく、それをくれて、その作り方を詳しく説明してくれた。
 万事、面倒くさがり屋の私だったが、これは真面目にやってみた。
 その出来栄えは写真の通りである。



 その彼女に乳ガンが見つかり、名古屋の病院へ入院した。
 医師が、病状を説明するから身内のものに来て欲しいというのに対し、国元には姉がいるらしいのだが事情があって出てこられないという。そこで私に立ち会って欲しいという。
 私は躊躇した。もちろん、彼女とは内縁関係でもなんでもない。しかし、困っているのなら行くことはいとわないが、ガンの進行状態などについて医師が私に話すというのが負担である。身内でもなんでもない私がそんな重い話を聞かされるというのは耐えられないものがある。

 しかし、彼女に懇願されて、ついには折れた。
 医師と私が対面することとなった。
 「あのう、私は親族でも彼女と特別な仲でもなく、お話しをお伺いする資格があるのかどうか、またお伺いしてもそれに対してなんの責任も負えない立場なのですが・・」とまずは言い訳がましく切り出した。
 「その点は患者さんからも伺っています。ただし、万一のことがった場合を考え、ご説明をしなければなりません。それで、必要なことは、あなたの方からお姉さんにご連絡いただけませんでしょうか」とのことだった。

 病状はあまりいいものではなかった。ようするに「五分五分」だということで、それもやや悲観的だというのだ。
 手術が行われた。一応は順調ににいったかに見えた。彼女ももとのように快活に振る舞っていた。
 私のみが、固唾を飲む思いでそれを見ていた。

    

 やがてよくない兆候が出始めた。
 体力が落ち、疲れやすくなり、顔色も悪くなった。
 彼女は、治療法が変わったからだと思いたがったが、実はすでに転移が確認されたから治療法も変わったのだった。

 再び医師に呼び出された。
 転移の事実を告げられ、これからは身の回りの世話もいるから、故郷へ帰ってちゃんと入院した方がいい、自分も本人や姉さんという人にいうから、あなたの方からも本人や姉さんにその旨を説得して欲しいとのことだった。
 その説得が効を奏して国へ帰ることとなった。
 私の店の顧客の有志と私とが引っ越しを手伝った。

 はっきり言って死にに帰るようなものであった。
 手紙が来た。電話もあった。
 ある日電話が来て話している最中に、異様な感じになって電話が途切れた。
 驚いて聞いていた宮崎の病院の番号を調べて電話をした。
 電話の途中に倒れて安静中とのことだった。
 翌日改めて彼女から電話があったがそのときは元気そうであった。
 
 しばらくして病院宛に激励だかなんだか分からない手紙を書いた。
 数日して、開封されないまま付箋が着いた手紙が戻ってきた。
 「本人死亡につき返送します」
 
 

 姉さん宛に香典を送った。
 かな釘流の礼文とともに、段ボールいっぱいの野菜が送られてきた。
 一周忌に花を贈った。
 今度は精米前の玄米が送られてきた。

 一見、ユーモラスな瓢箪も、そんなわけで私にとっては切ない思い出と連動している。
 私の手元にある彼女の思い出は、写真の瓢箪と、彼女が国へ帰る際にくれた一枚の絵である。

 もうひとつ、わたしが彼女にしてやれたことがあったのかも知れない。
 しばしそれを自問したが、それはなくてよかったのだろうと思う。

 彼女について、ドキュメンタリー風のけっこうボリュームのある文章を書いた。
 読む人もいない文章だから、今も公表しないまま私の私の手元にある。

 宮崎は、私にとっては東国原のあの漫画チックな世界ではない。
 ちなみに彼女の源氏名は「若杉」といった。          合掌




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨の日の閑話休題

2009-07-04 01:40:15 | よしなしごと
 写真は梅雨の晴れ間に撮っておいたものです。 

  今年の梅雨は割合真面目によく雨を降らせるようだ。
 おかげで植木に水をやる手間がはぶけおおいに助かっている。

 

  明日は雨降りという日に水をやっていると家人が言う。
 「明日は雨だから何も今日やらなくても・・」
 「いいや、草木は明日ではなく今日水を欲しがっているのだ」と私。
 それでも納得しない表情を見せているのでさらに追い打ち。
 「どうせ明日飯を食うのだから今日はやめておくというわけにはゆかんだろう」
 口の減らないジジイである。

 

  電話がかかかってきて、家のリフォームを半額でするから見積もりを取らせてくれという。
 「見積もりそのものがもう半額なのか、それとも見積もったものを半額にするのか」
 と尋ねたら、なんかもぐもぐして歯切れが悪い。
 「あんたが見積もりに来るのか、それとも電話だけの係か」
 と尋ねると、
 「別途、担当のものを伺わせます」
 という。ようするに電話でアポを取るだけのバイトかなんかだ。
 「あんたんとこの電話用のマニュアルはあまりよくできていないようだね」
 といって電話を切った。

 

 
  昔から取引がある銀行から、古~い通帳があり、今様の物に変えるからもってこいという。
 探したけどない。もう何十年も前のものだからよく分からない。残高も分からない。
 そこで銀行へ出かけた。
 どうしたらいいかと聞いたら、紛失届けを出したら新しいものを発行するという。
 ただしそれには、1,050円の手数料がいるという。
 それを書きかけて、念のため、「それって残高はいくらありますか?」と尋ねた。
 「ハイ、358円です」
 私の手ははたと止まった。

 

  358円のために1,050円、銀行の建物全体が笑っているように思えた。
 「それなら、前の分を放棄しますから結構です」
 と帰ろうとした。
 「あ、でも、それってもったいないですよ」と窓口の彼女。
 ではどうしろと?という私の表情を見ていう。
 「再発行ではなく、前の口座を解約し、新しい口座を開設されたらそちらへ古い通帳の残高を移せます」とのこと。それには経費は要らないらしい。
 オイオイ、もっと早く言ってくれよ。
 もう少しで1,050円をむざむざ盗られるところだった。
 残高358円の新しい通帳を作った。誰かどばっと振り込んでくれないかなぁ。



  どこかの中年のご婦人が丁重に頭を下げている。
 若い娘にはもう相手にはされないが,中年のご婦人にはまだまだと思い,丁重に挨拶を返した。
 後ろで声がした。
 どうやら私にではなく,後ろの人への挨拶だったようだ。

  早く梅雨が明けないかなぁ。
 でも明けたら明けたで暑くなるんだろうな。
 
 ついでにするような話ではないかも知れないが、都議会議員の選挙が始まったようだ。
 都民はどんな判断を下すのか、ちょっとスリリングではある。
  

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする