きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

ヤサシイボクダカラ

2013-02-22 | 息子keke
今日は「ひきこもる」と言うことを考えた。

と言うのは、自分は最近「ひきこもっている」のではなかろうか、と思い始めたのがきっかけだ。
見た目は外にも出ている、仕事もしているように見えるのだが。

年齢的・環境的なこともあり、「これを今すぐ直すべきか否か」まだその答えは保留にしておく。
とにかくここで、自分がひきこもることで、kekeの心境を考えてみようじゃないかと思い立った。

なぜひきこもるのか。

それを「どうして自分は人と接するのが億劫になってきたのか?」と考えた。
自分自身に問いかけると、私はすぐに答えを出した。

「それは傷つくのがイヤだからです。」
私はそう答えた。

そうなのだ、わざわざ傷つくのがイヤなのである。
だからkekeも自分の部屋に入って扉の鍵を閉めたのである。
「アンタの言葉でこれ以上傷つきたくないよ」と言うことなのである。

もう1人の(親としての)私は言う。

「傷つくより前にちゃんと誤解の無いように説明したらどうかしら。」とか
「それは事実なんだから直したらどうかしら。」とか。

でもちょっと待った。
例えばその場合、どちらが正しいと言うのは誰のジャッジだろう、と私は考えた。
その原因は傷つく方の繊細さかもしれないし、傷つけた方が無遠慮なのかもしれない。
その判断に正確と言うものがあるのだろうか。

その場合、「自分が正しい」と言ったものの勝ちなのではないか。


私は今日はナゲットを揚げながら、やってきたkekeに「kekeはとても優しい子だから、今まで人を傷つけるような言葉を1度も言ったことがないだろうね」と言った。
kekeは「ヤサシイボクダカラ。」と言う。

「ほんとは私もそうなんだよ、親子で似てるんだよ。」と私は言い、「これからはお互い傷つける言葉を止めて優しい親子でいよう。」と言うと、kekeは「(自分はそうだが)アンタにそんな事できる訳がない」と言う。

それはずいぶんじゃないか、とでも言いたいが、kekeがそうジャッジする以上、そうなのだろう。
子供が安全なのをいいことに、私は今まで傷つけるような言葉を言ってきたのだろう。
「正しい」と言う武器を持って。

それでは、そう言う子供が元気になれるにはどうあればいいのか。

一つは自分が否定されない絶対的な存在、安全基地みたいな存在があると良いのではないか。
親は絶対と言うことはなかなかできないから、おじいちゃんおばあちゃんとか。絶対ここに来れば大丈夫、と言う安心できる場所があると良いのではないかな。

それともう一つは、自分が相談される立場になると良いのではないか。
相談されたり頼られると誰でも「答えたい」と思う。
そうすることで、ちょっと元気になれるのではないかなぁ。

今日はそんな事を考えた。
考えたからと言って明日から何が急に変わるわけでもないんだけれど。