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きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

受いれる/加島祥造さん

2013-07-21 | 読んだ本
また図書館で加島祥造さんの本を借りる。
この本は予約を掛けている人が何人もいて、こうして手元に来るまでに何ヶ月か掛かった。

この「受いれる」は前にも紹介した「求めない」の第2弾みたいな感じである。
だいたいこう言う内容ですよ、と紹介したいのは山々なのだが、表現も詩のような語り口調で抽象的でもあるし、今の自分が40年も長く人生を生きてきた方の表したものを正確に理解しているとは思えない。

この本の主軸からだいぶ離れた末端のところで、具体的にはっきり書かれた文脈があり、そこだけは思うところがあったので、メモ程度に引用しておこう。

  教会や神前で
  ふたりの愛はいつまでも変わらない
  と誓い合うのは
  大嘘さ
  愛はいずれにしても形を変える
  でも、いいじゃないか
  その時はそう思ったけれど
  いまはこう変わったんだ、と
  言えばいいんだ
  何の後ろめたさもなしにね


人の思う気持はいずれにしても変わるのだ。
と私も思う。

例えば、4年前にあんなに車が大好きで朝4時に家を飛び出してレンタカーを借りに行った自分の情熱は、今では正直もう無い。
たしかに情熱はなくなってしまったけれど、それでは車が嫌いになったかと言えば、そうではない。いつもの当たり前の通勤道路でも、季節は変わるし空の色も毎日違う。昔と形を変えたけれど、愛着はあるのだ。

人間同士だって同じではないのだろうか。
たしかに最初はあんなに情熱があったのに、それが当たり前すぎてしまって少しづつ形が変わっていくことがあるだろう。
気持が変わることを大抵の場合「悪く」解釈してしまうけれど、「落ち着いた」と考えて、そこからどう舵を取っていくか、お互いに考えたり話し合ったりすれば良いのではなかろうか。

けれども、「二人の愛情が変わらない」ことが誓い=正しいと考えると、「落ち着いた」ことを「情熱がなくなった」みたいな捉え方になってしまうことが時としてある。変わっていくことが許せなくなる。
しかも自分が変わっていることはあまり見えずに、相手の変化だけが見えてくる。そうすると今の自分達の立ち位置が悪いような気になってしまう。これは残念なことだ。

人の気持は変わっていくのが、当然なんだ。
これを前提にすれば、どうせ変わるなら悪くではなく、よく変えて行くためにこうしましょう、ああしましょう、と言う前向きな姿勢になれるような気がする。それの方がはるかに有益ではなかろうか。(もっともそうなるには双方でこの愛情を保ちたいという気持がある場合に限られるけれど。)

この加島さんの「大嘘さ」と言う切り方がうれしかったので、本題から離れた末端のところだったのに引用してみた。


生きていれば、思いもよらない穴に落ちることが何度かある。
どうしてもこれたった一つだけは、と願うことが叶わないこともある。

でもそこで悔やまない。
受いれる。
流れてくることに理由を求めない。自分にも他人にも求めない。

私はいっぱい失敗をした。
結婚もそうだし、子育ても口には出さないけれど、私の考え方や思い込み方で間違いがあったな、と思っている。

でも流れてくることに理由と求めるのをやめようと考え始めてから、少しづつ変わった。
人のせいにしないようにしてきたら、自分にも理由を求めなくなった。

ハッキリ「私が当時悪かったな!」と思えるのは、自分が好きになったからなんだ。
たしかに誤ってしまったのだけど、その時は一生懸命真面目に考えてそうしてた、そんな自分をも受け入れようと思っているのだ。

私はひとりぼっちだ。
結婚も2度も失敗してるし、子供もよその子のようには就職していない。
「あの人失敗ネ」と指差す人もいるだろう。

でも内心はこう思ってる。
そういう指の差し方をしてしまう人より、いろんなことを経験して考えてここまで来たのだから、私はそういう一方的な見方はするまい、と言う自負がある。

同じようにkekeに対しても自負がある。
私がこうやって考えてきた同じ時間を、同じようにあの子はあの子なりに別の何かを考えてきたはずだから、それなりのものを積んできてるはずだ、と。

だから私は口では「失敗です」と言いながらも、本当の失敗なんて誰にも分からない、と思い切ってるのだ。
それが私の「受いれる」なのである。

ZENさんの遺産の話

2013-07-21 | 今の会社
ZENさんが電話で「除籍謄本ですね、用意しておきます。」などと話しているので、「?」と思って尋ねてみると、この前亡くなったお母さんの遺産相続があると言う。
ZENさんは「残ってる現金が少ないから、今住んでるマンションを売って金に替えてアネキと分けるんだ」と言う。

ZENさんは亡くなったお母さんの面倒も一緒に住んで看ていたくらいなので、「マンションをZENさんがいただいて、現金をお姉さんと言うわけにはいかないんですか?」と言うと、「アネキはそれじゃ自分が少なくてイヤだ、借金して足りない分を払えと言うんだよ。」と言う。

「でもマンションを売って、アパートに引っ越してもそこで家賃を払えなえばならないでしょ?だったら、お姉さんから借りて月々返しても同じなのでは。」と言っても、「今の安月給で借金して返せるわけが無い」とZENさんは言う。

「息子さんも今高校生なんですから、働き出せば返せますよ。」と言っても「それまでがもたない」とZENさんは言う。

私がお姉さんの立場だったら、少々自分の持ち分が少なくても、お母さんと住んでいたマンションはそのままZENさんと息子さんに住んでもらって権利もあげて、自分は現金をいただいて納得するだろう。
それかZENさんの息子さんが高校卒業するのを待ってから、少しづつ(月に2万づつぐらい)その分のお金を返してもらう。(10年がかりで返せる計算になる。)
今現在弟と甥の住むマンションを売ってきっちり半分にするなんて、亡くなったお母さんが喜ぶと思うのだろうか。

・・・と思ってしまうのだが、余計なお世話なのだろうか。

ZENさんの話ではないけれど、遺産を分けるのがイヤで、死んだのを黙っていたという人の話も聞いた。
本当にそこまでお金で人は変わるものなのだろうか。

私はそれだったら、兄弟仲良く関係を続けていくことを選びたいと思うけど。。。
どうかなぁ。