津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

松井家公儀知行地

2006-06-16 13:02:47 | 歴史
 松井家は陪臣でありながら、公儀から知行を拝領している。始まりは秀吉代に遡るが、康之の母法寿に領地の証書が下されている。

  山城国八瀬村、十三石事令扶持訖、全可領知候也
            天正十三年十一月一日  朱印
    松井母 

 文禄の頃、秀吉は康之に石見半国をあたえ、直参にしたいと考えたようだが、康之は「身に取て難有き上意ニ御座候へとも、幽斎父子数年の恩遇他に異候故、是と列を同するの処難忍覚候」と恐れながらと断っている。秀吉は大変感心し「松井は常に茶道に志深きゆへ茶料にすへし」として、上記母宛ての八瀬村にあわせて神童子村を知行された。

  一、百六拾石壱斗七升  本地城州神童子
  一、拾三石壱斗弐升   母地同 八瀬村
      合百七拾三石弐斗九升
     右令扶助之訖、可全領地候也
      文禄二年十一月十一日  御朱印
       松井佐渡守とのへ

 このことは、徳川の時代になっても受け継がれている。
康之は、慶長十七年正月二十三日小倉において亡くなるが、遺言らしきものが沢山残されている。そのなかに、この知行地に関するものがある。

      就私相果申、乍恐言上之条々
  一、  (略す)
  一、御知行百七十石内 百六拾石ハ上山城之内、十三石ハ八瀬之内
    数年拝領忝奉存候、京都盛芳院ニ有之むすめニ遣之置申候、拙
    者相果申上ハ返上仕候事
  一、  (略す)
     已上
    慶長十六年十二月十五日       松井佐渡守
                         康之
         本多上野介殿  
              参

 亡くなる二十数日前のものであるが、この知行が康之から娘・いと(吉田盛方院浄珍法印・嫁)に与えられていた事が伺える。
この文面は遺物と共に駿府の家康の下に届けられた。
「家康公被聞召、康之ニ豊後の明地を被預置候ハ、慶長五年大乱の忠義御感賞、且ハ常々御懇故なれハ、此節勘定ニ不及とて不残興長ニ被下、城州二ヶ所之領地も無相違之旨被仰出候」とされ、以前のまま松井興長に引き継がれた。一方本多上野介は「惣別領地を娘に譲るといふ儀は無之事ニ候、物成ハ遣被申候共、領地ハ嫡子ニ拝領之事ニ候間得其意候へ」と使者に注意を与えている。興長は二通の答書を以って「御礼申上」ている。

 このことについて、興長が江戸へ答礼に行った事もないし、また御朱印状がくだされた事もないと綿考輯録は語っている。下って家光代・寛永十三年藩主忠利参府にあたり興長も同行し、この領地返上を忠利から上奏しているが、老中より「領地無相違」と達しあってこれより代々続いたわけである。「但宝永七寅家宣公御代寿之在勤の内、八瀬村御用地ニ被召上、其代りとして泉州泉郡尾井村之内を被下候也」と知行地の変更がなされて、明治維新にいたっている。

 
コメント (1)
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