津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「御鷹の鶴」拝領、御礼の使者

2006-06-20 09:10:07 | 歴史
 元和三年(1613)十二月、忠興は「御鷹之鶴被為拝領候由忝儀候」とて、御礼の使者を出している。荒川与三、荒川治部少助晴宣の孫、荒川勝(少)兵衛の息である。「荒川与三ニ下申候、御奉行衆へも大炊殿(土居大炊)江も前一戸之城をもち候ものゝむすこ、我等親類之ものにて候由可被申候、大夫殿へも鶴被遣候由候、いかやうの使にて御礼可被申上も不存候、かるき使を進上仕候様おの/\被存候へハ如何候間、右之通可被申候事」と、幽齋室麝香の姉(荒川治部少輔晴宣室)の孫を使者としたことを説明している。処が一方「与三口上不調法ニ可在之間、田中半左衛門一人さしそへ、こうけんを仕候様ニ能々可被申付候事」と書いている。田中半左衛門も又忠興妹伊也(一色義有室・吉田兼治再嫁)女徳雲院の壻で、長束大蔵大輔正家の子である。かろき使者では礼を失するから、身内でも有る与三に使いさせるというのだが、口上が不調法では使者としては如何なものなのか・・・。そして、将軍家から拝領する「御鷹の鶴」とは、何とも不思議な代物ではある。
 ちなみに荒川与三の父勝兵衛は、徳川家康の岐阜攻めに際し、忠興の下で「城ニ付申衆」として戦功者の一人とされている。「菅野勝兵衛・・輝宗、後ニ荒川ニ改、武衛家也、義昭公の時六条合戦に鑓を合す、光寿院様(幽齋室麝香)の甥なり、父は荒川晴宣治部少輔晴宣」と綿考輯録は紹介している。又巻9-P50には御番頭・荒川勝兵衛とある。
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