津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

最近気になること

2006-06-18 16:18:40 | 徒然
最近気になること
  *新右翼・鈴木邦夫の言動
  *市長に直訴した事柄に関する、市役所の回答
  *ナノバブル水の今後
  *荒川治部少輔晴宣の子、菅野勝兵衛輝宗に関する「武衛家也」という
             綿考輯録の記述(巻14・P257)
  *わが愛犬ごえもん(17歳)の肥満
  *不愉快な我が左手のしびれ(握力はある)
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有吉四郎右衛門立行の「武蔵守」

2006-06-18 00:10:46 | 歴史
 有吉家は、松井・米田と共に代々家老を務める細川家の根本家臣である。初代立言(旧姓佐々木)は細川元常・藤孝に仕え、天文11年有吉と改め、丹後国安良城預かり。二代目四郎右衛門は立言の嫡子、丹後中山城代を務め五千石、慶長五年石垣原の戦いで戦功を挙げる。同年暮れ、豊前の国主として細川家は中津に入り、翌年七月「去年岐阜・関原・木付(石垣原)の役ニ手ニ合候者不残御饗応」なされ、立行は「武蔵守」となり長岡姓を賜る。その経緯、「有吉四郎右衛門を長岡武蔵守、後藤又兵衛なとが随分の者なれ共、紀伊谷にて猩々緋之羽織を抜たる事あり、有吉ハ数度之戦場に一度も不覚を不取、古の武蔵坊ニもおとるまじ、然れば武蔵になしても笑ふ者ハ有間敷と、列座之面々に御意被遊、扨御召縫延之御具足を被為拝領(以下略)」弐千五百石加増され、後七千石加増、都合一万五千石となり家老職となった。「武蔵守」が武蔵坊弁慶から来ているとは、ちょっと驚きである。
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