天正十一年(1583)一月末、秀吉は滝川一益を攻める。細川軍は亀山の城を攻めたという。その折の話。「唯今黄絹に日の丸の紋を付たる者群を抜てかせきたるハ誰なるそ」「見て参れ」との秀吉の仰せに、御小姓野々村伝右衛門なる人が確認に駆け出す。程なく帰ると「米田にて御座候、指物日の丸ニ而ハ無之、敵之鉄炮にて指物を破り御陳にてハ日の丸と見へ候か」と報告、「秀吉公甚御感被成候」て、助右衛門の働きに対し感状を賜り「向後指物に日の丸を用へき旨被仰出候」となった。25歳の頃の話である。
この助右衛門、慶長五年(1600)岐阜攻の時、与一郎忠隆の下で奮戦中、左脇を鉄炮で撃たれ「御用に立可申と存候所ニ無念なる事に候」と言い残して戦死。42歳。この時の指物ははたして「日の丸」だったのだろうか。
この助右衛門、慶長五年(1600)岐阜攻の時、与一郎忠隆の下で奮戦中、左脇を鉄炮で撃たれ「御用に立可申と存候所ニ無念なる事に候」と言い残して戦死。42歳。この時の指物ははたして「日の丸」だったのだろうか。