津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

大谷刑部左衛門成家と沢田次郎助

2006-06-17 17:03:22 | 歴史
 田辺城籠城衆について、「沢田次郎助内室の功績」を追加した。これは一色軍記から、該当項を抜粋したものである。(参考:宮津市歴史資料館2005年春季特別展・古代中世の宮津・展示解説図録中の「資料・一色軍記(竹野神社)」

 慶長五年幽齋が田辺城籠城に際して、細川忠興の弟・玄蕃興元の内室以下、侍の妻女・娘などを、機転良く田辺まで避難させたのが、沢村次郎助の妻女である。次郎助の日頃の善政を感謝していた村人が、自発的に二百ほど妻女の下に駆けつけ、その手の者により脱出がなされたと伝えられる。
 さて沢田次郎助若年の頃、一色氏家臣の大谷刑部が、吉原城落城後但馬に落ち延びようと馬を進めていたところを見咎め、太刀を合わせて功名している。刑部はかっては足利家臣で、「自分が帯たる大刀は数度の功名で義輝公から給わったものである。そのお墨付きは兜の内にあるから、首実検に出されよ」といって討たれたという。興元は、次郎助の働きに八千石(???)を与えるとともに、刑部の武勇を惜しんだという。
 この次郎助は岐阜攻め(慶長五年八月二十三日カ)に出陣、「白黒段々のしなひを指、馬上に鑓を持少し遅参しを、忠興君何とて遅かりつる、鑓をかたけよと被仰けれハ、誠に少をそなハり候、去なから人並にハ働申とて鑓を振かたけ、むとう丸の城戸の内に込入ハ、敵の大将津田藤三郎元房馬を乗廻し士卒を下知するを見、名乗かけて太刀打せしか、次郎助つと入て引組、互に馬より落しはらくもミ合候へとも、坂をしのき急き登りしに勢つきけるにや下になるけるに、組しかれなから尚一刀切りけれ共、ついに津田か為に討死をとくる」(綿考輯録・卷14-P247~248)

 さてこの大谷刑部左衛門成家、関ヶ原で奮戦自害した大谷刑部少輔吉継とはどういう関係だろうか。ぐぐって見たが出てこない。

(心配なのが、この一色軍記ちょっと信憑性に欠けるところが有る。例えば一色義有を細川が謀殺した時、義有の内室(忠興・興元の妹)が、興元がいる峯山城を尋ねたが追い返されて、失意のうちに自殺したというような話だ。細川方の話によると、細川家に帰ったこの方「伊也さま」は、忠興に懐刀で切りつけ、忠興は鼻の頭に傷を負ったという。後、吉田左兵衛督兼治に再嫁している)
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