津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■6日ぶりの散歩

2021-10-12 11:24:21 | 徒然

                 

 6日間も散歩をさぼってしまった。少し後ろめたいものがあって今日は9時半過ぎに出かけ、4.1㌔を55分かけて歩いた。
まだ完全に疲れが抜けていなくて、スピードは上がらないし足元がふらついている。
Drのご託宣によると、小脳の縮小が原因との事だが、なんだかどんどん縮んでいるような気がする。

良い天気が連日つづき、今日も真夏日になる事は間違いない。
とぼとぼあるいていると、70前くらいのご夫婦が脇をすり抜いて行かれた。
奥さんが「イワシ雲よ」と空を見上げて居られたが、旦那さんの方はしばらく眺めていて「あれはイワシじゃなくて鯖だな」と返している。
「久しぶりにスシローに行って、鯖すしを食いてえなー」という落ちが付いた。
その後の話は、とぼとぼ爺さんは距離を開けられてその結論を聞いていない。(わたしも食いたい・・・)
しばらくして証拠の「鯖雲」を携帯で撮影したが、もう鯖の態をなしていなかった。


コロナ禍の中で、散歩もままならなかった人たちが外に出始めているのを感じる。熊本は昨日の感染者はは2人、ワクチン接種の効果が表れているのだろう。
生鮮食料品のマーケットや、ホームセンター等も賑わっている。かっての日常が戻りつつある。

すっかり夏バテ(散歩バテ)してしまった私の日常は、体力の回復を待たないと図書館に出かけることもままならない。

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■川田順著「幽齋大居士」一二、聚樂第

2021-10-12 09:13:06 | 書籍・読書

       一二、聚樂第

 關白豊臣秀吉がその居館聚楽第に、後陽成天皇の行幸を仰ぎ奉つたのは、天正十六
年四月のことであつた。盛儀の御模様は豊鑑巻三「内野行幸」の章に精しく書かれて
ゐる。風輦は月の十四日に著御あつて、五日間駐まり給うた。秀吉好きの道なので、
十六日には盛大な歌會が催され、御製を下し給うた。作者實に七十人、過半は堂上の
公卿達だが、秀吉、信雄、家康、秀次、秀家、利家、秀康、秀政、氏郷、信秀、長重
義統、直政、高次等々の諸豪傑参加し、幽齋父子ももちろん出詠した。
 當日早朝から幽齋は参殿して、玉座に近からぬ一室に坐り、「松風祝」の題下に作
らえた大勢の人々の詠草を添削するに忙しかつた。中には代作を依頼した豪傑も數人
あつた。幽齋は拙劣なる歌の加筆に疲れては、折々泉水を眺め、石の上に遊ぶ鶺鴒に
眼をやるのであつた。其處へ子息の忠興も現れたので、
「汝の歌は。」
「歌と申すもの、二十五歳の今日初めて試みました。」
「いかなる歌が詠めたか、披露して見せい。」
「君が代の長きためしは松にすむ鶴の千とせをそへて數へむ。」
「添削の致しやうもない下手な歌じや。詞はさて惜き、その内容はなんぢや。鶴龜鶴
龜、芽出度し芽出度し、といふだけのことではないか。」
 幽齋は朱筆を投げて苦笑した。さうして、徐ろに戒めた。
「今後、少しは歌學もせよ。年老いて樂しみになるものぞ。」
 忠興、口を吃らせながら、
「それがし如き者が、なまじひに歌を作りましたならば、却つて父上の御名譽を汚す
ことにならないでございませうか。」
「なんと申す。いらぬ遠慮ぢやわい。汝等如きの五人や十人が汚したとて、乃公の歌
道が汚されるものかよ。」
 この幽齋の言葉はまことに味が深い。文武兩道の達者にして、しかも人に驕らぬ謙
虚な性質の持主ではあつたけれども、自分の歩める道に對しては、深甚の自身と自尊
心とを懐いてゐた。自尊心や自身力といふものは、その人次第で持つべきものだ。か
いなでの武士や歌よみなどに持たれては始末が悪いけれども、幽齋ならば持たねばな
らぬし、また持つてもらひたいものでもある。ある人間の藝が高いといふことは、他
人が寄つてたかつて持上げてゐることではなく、その人間自身の手と脚とで支へてゐ
るといふことであらねばならぬ。
 忠興は決して不肖の兒ではなかつた。武において乃父を辱しめなかつたのみなら
ず、晩年には相當の和歌も詠んだ。茶道の達人としての「三齋」を知らぬ者はない。

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■よみがえる新日本紀行 肥後秘花 ー熊本ー

2021-10-12 07:11:24 | 熊本

 我が家の近くの小学校では昨年、生徒たちが朝顔を育てていて正面玄関にずらりと並べられていたが、花は大輪の一輪だけで、これは一応「肥後朝顔の仕立て方」に沿ったものであったようだ。
ただ、ある時期に咲くように育てられるものとは違い、その咲く時期はその花任せであったようだ。
 
 一昨々日NHKの熊本ローカル番組「熊本の風」では、「よみがえる新日本紀行‐肥後秘花 ・熊本」を放送していた。
WEBサイト「徒然なか話」では昨日よみがえる新日本紀行として取り上げられていた。
放送では肥後六花の一つ「肥後朝顔」の仕立てを取り上げていた。
なかには、昭和56年のこととて、八代の松井家・松浜軒で開催された「菖蒲の茶会」のシーンもあり、松井家ご当主ご夫妻など、懐かしい方々のお顔を拝見した。
ここでは、御庭は「肥後菖蒲」がさかりであった。このお茶会には、私も数度出かけたことがあり感慨深い。

 横井小楠の句に 朝顔の花が見たくて起きにけり があるが、山崎貞士氏著「東肥花譜‐肥後の花と人と」で氏は、「これは小楠の生涯唯一の即興句」だとして紹介し、彌冨家の当主が届けたものであろうと述べておられる。
これとて、小学校の生徒たちの者と同様、咲く時期はその花任せであったろう。
処が、肥後朝顔は育ての段階で生育をコントロールして、ある時期・例えば展覧会の期日に合わせて花が咲くようにするという。
ただただ御見事というべきしか言葉がない。
明治維新期には衰微したものが復活し、愛好家の熱意により今日も続いている。
肥後人の忍耐強さと先人の遺徳を思う気持ちが脈々と生き続けている。



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