一八、朝鮮國使
家集の衆妙集に次二朝鮮國正使松堂老人來時詩二編韻旨一綴二國風一和合と題して
月や訪ふかたしく袖の秋風に寝ぬ夜かさなる旅のすみかを
西の海やそのふなよそひとくせなむ秋くれゆかば浪の寒さに
の二首。松堂老人の夜長旅館愁無寝・新月多情照獨棲また唯愁歸路三千海・遠客風
帆阻歳寒に照應してゐる。
かねて秀吉が朝鮮の入貢を促したので、天正十八年七月下旬、正副國使の一行京都
に着き、大徳寺に館した。當時小田原征伐で、秀吉はゐなかつた。彼は九月一日凱旋
したが、しかも容易に國使らを呼び出さす、やつと十一月七日に至つて聚樂第に引見
した。引見の模様は晴豊記に審かだが、それによると聖護院・菊亭・中山・日野・飛鳥
井・宇喜多等々相伴の人々を擧げ、又、虎皮百枚・蜜柑五・人参一箱など彼國よりの
進物のことまで書いてゐるけれども、細川幽齋云々の文字は見當らぬ。すなはち幽齋
は使節節伴の表面には出なかつたものらしい。以下は筆者の想像だが・・・
百日間も待たされたのだから、彼らはさぞ退屈したらう。おのづから日本の名士等
と交際して退屈をまぎらそうとする。かやうな場合、政治家や軍人を相手にしては肩
が凝る。徳川家康や前田利家にやつて來られたのでは、くつろげない。加藤清正に訪
問されたら、迷惑だ。おのづから塵外の人々を好んで據ぶことになる。僧侶や茶人や
詩人や畫家などに限る。當時五山の文學は既に荒涼といふも、西笑照春らの徒殘り、
惶窩も居つて、詩文の脈を傳へてゐた。茶人には全盛期の利休がゐた。畫工には、永
徳は前年に亡くなつたが、山樂・等伯・友松らの巨匠がゐた。かやうの天才らが招か
れたり、押しかけたりして大徳寺を賑はしたであらうことは、想像してもよかろうと
思ふ。
歴史によれば正使黄允吉、副使金誠一、書狀官許筬らとある。衆妙集の松堂老人は
「正使」と明記してゐる以上、黄允吉であらねばならぬ。