現在ある方が「仁助咄」の古文の読み下しをしておられる。少々お手伝いをする中で、やたらと農業用語が出てきて、もうちんぷんかんぷんである。
「土免」「損引」「徳掛」「水主米」「口米」等々である。
宇野騏八郎という人物は、選ばれて郡代となったが、「田賦(土地税)」の事にうとくて困惑し、自らの業務にも支障が生じるため、古書を調べ上げて「田賦考」という細川藩農政にとっての参考書を著している。
又、菊池郡深川の会所の手代・河口新左衛門という人物は、「土貢(田租)管見録」を著し、農政に係わる人たちに重宝された。
垣塚文平は「官職制度考」を著したが、この中の「郡政部并田賦」では割と平易な解説がなされている。
しかしこれとて私は一気の理解ができずにいる。
(前略)寛永九年妙解公襲封の後同十年より國中撿地ありて郡政の大綱を議定し給ひてより已來連綿して今に至れり
其大綱は變革なしといへども時の勢によりて郡政の改りし事幾ばくならん 延寶年中に土免極天和に上知寶暦に地引
合撿地ノ異名享保に請免の議ありて止む 安永に免方潤色天明に同潤色享和に請免撿見の法に延寶の比石見と云あり
其後五割の作法三割の作徳と云も皆時々の變法なりといへども寛永已來の法を紀綱として大同小異なりしを享和に至
りて請免となりて寛永已來二百年の檢見の法此時に廢絶するは一大變なり後年の利害得失豫して論し難く管見の及ぶ
所にあらす
〇徳掛
右徳掛と云は秋に至り田畑に登りたる米穀を檢見を初田賦にかゝりたる役人立會見分して公の歛敷を極りたる通り
に百姓共受合て上納するを土免受除と云
〇損引
大損引と云は水損旱損風損虫入等の外さま/\天災にて作毛登らず土免通りの受のきかたき時は損引を願ふ 其時
に撿見を初夫/\の役人立會て登不登を改め有實をためし五公五民とか四公六民とかをさため極る 是を損引と云
徳掛損引の兩法受免已後絶たり 内撿の官廢す 其法予詳にせずと云共思ふ子細ありて大略を記す
〇土免とは此畑には上納米未何石何斗と極りたる通り上納いたすを土免と云 凶年には其通り上納成かたき故損を引
と云て其田有たけの石高に五割の作徳を百姓に給る たとへば籾一石五斗の籾ならば五斗百姓に給り一石は公の納
となるを云
なかなか理解に苦しむ言い回しで、簡単な解説がないものかと探し回っている。