三、救出
永禄八年五月雨の最中、將軍義輝を殺した三好、松永等は弟の覺慶(後の將軍義昭)
をも殺すべく奈良に手入せんとした。當時覺慶は興福寺一乘院の法務だつたが、藤孝
これを憐れみ、いかにもして救ひ出そうと計畫をめぐらした。「法務は病気」と噂立
てさせておいて、或日京都から典藥を見舞に遣し、一服進め、即時全開と寺内にふれ
させた。その晩、祝酒の大振舞に門番共まで酔ひつぶれてゐる隙を、典藥が覺慶の手
を執つて、五月闇の中へどろんと消え失せた。
春日野の片隅、黒装束に身を固めた手の者數人を伏せて、藤孝は、首尾如何と闇の
木かげを睨んでゐた。近づいて來た足音に向つて龕燈を突付けると、まさしく二人の
落人であつた。覺慶は顫へてゐた。藤孝は彼にひたと附添ひ、黒装束が前後を護つ
て、急に足を踏み出した。
「信樂までお供させて戴きます。」
とささやいた彼に對して、覺慶は挨拶もしなかつた。春日の裏山にかかると、群杉
の奥で鳥か、獣か、怪しい叫び聲を立てた。覺慶は立すくんで、
「何かな。」
「空山夜猿啼。猿でございます。」
「鵺とはちがふか。」
藤孝は「源三位がお供してゐる。安心し給へ」と言ひ度かつたのだが、不遜を恐れ
て黙つてしまつた。武將にしてすぐれた歌仙なりし頼政を、彼は偶像のごとく禮拝して
ゐたのだ。師匠の實枝は古今集ばかりを手本のやうに教へるけれども、藤孝は慊ら
ず、頼政集も、金槐集も、乃至、師匠の異端視する曾丹集さへも、ひそかに讀みあさ
つたのであつた。
一晝夜苦勞して、やつと江州信樂の寒村にたどり着き、とある山寺に泊めてもらつ
た。住持は、泊客らの身分は知らないけれども、他生の縁と、ねんごろに接待した。
「御覧の如き貧乏寺、なんの風情もありませぬが。」
とことわりながら、葛切を盛つた椀を運ぶ。覺慶は、從者らに食べよとも言わず、
いち早く箸を取上げた。
「臆病のくせに、我慾は強い男だ。とんだ人間を將軍の候補として信長に推薦してし
まつたわい。」
と後悔しながらも、同時に、一個の声明を救つたことの満足を感じないでもなかつた。