森鴎外の小説で細川藩に関わる歴史小説が三つある。「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」「都甲太兵衛」だが、先の二件は良く知られているのではないかと思うが、「都甲太兵衛」については、それほどメジャーではないように思える。
先の二件は「青空文庫」でも随分以前から紹介されているが、「都甲太兵衛」については紹介されずにいたから、私がしびれを切らして我がサイト・津々堂電子図書館でご紹介している。
「興津弥五右衛門の遺書」は「翁草」、阿部一族は栖本又七郎の「阿部茶事談」をベースにして書かれているが、都甲太兵衛についてはそのようなベースとなる資料は見受けられずにいる。
もっとも、坂口安吾の「青春論」の中の「三・宮本武蔵」に都甲太兵衛についての逸話が紹介されている。安吾はこれをどこから引いてきたのだろうか。大方のところは森作品からかもしれないが、最後尾にある、ある御屋敷のお庭を一晩で作り上げたという話は史料に出くわさないでいる。
この小説の史料の典拠一覧を拝見したいものだ。
晩年宮本武蔵が細川家にいたとき、殿様が武蔵に向って、うちの家来の中でお前のメガネにかなうような剣術の極意に達した者がいるだろうか、と訊ねた。すると武蔵が一人だけござりますと言って、都甲太兵衛という人物を推奨した。ところが都甲太兵衛という人物は剣術がカラ下手なので名高い男で、又外に取柄というものも見当らぬ平凡な人物である。殿様も甚だ呆れてしまって、どこにあの男の偉さがあるのかと訊いてみると、本人に日頃の心構えをお訊ねになれば分りましょう、という武蔵の答え。そこで都甲太兵衛をよびよせて、日頃の心構えというものを訊ねてみた。
太兵衛は暫く沈黙していたが、さて答えるには、自分は宮本先生のおメガネにかなうような偉さがあるとは思わないが、日頃の心構えということに就てのお訊ねならば、なるほど、笑止な心構えだけれども、そういうものが一つだけあります。元来自分は非常に剣術がヘタで、又、生来臆病者で、いつ白刃の下をくぐるようなことが起って命を落すかと思うと夜も心配で眠れなかった。とはいえ、剣の才能がなくて、剣の力で安心立命をはかるというわけにも行かないので、結局、いつ殺されてもいいという覚悟が出来れば救われるのだということを確信するに至った。そこで夜ねむるとき顔の上へ白刃をぶらさげたりして白刃を怖れなくなるような様々な工夫を凝らしたりした。そのおかげで、近頃はどうやら、いつ殺されてもいい、という覚悟だけは出来て、夜も安眠できるようになったが、これが自分のたった一つの心構えとでも申すものでありましょうか、と言ったのだ。すると傍にひかえていた武蔵が言葉を添えて、これが武道の極意でございます、と言ったという話である。
都甲太兵衛はその後重く用いられて江戸詰の家老になったが(津々堂注:そういう事実はない)、このとき不思議な手柄をあらわした。丁度藩邸が普請中で、建物は出来たがまだ庭が出来ていなかった。ところが殿様が登城して外の殿様と話のうちに、庭ぐらい一晩で出来る、とウッカリ口をすべらして威張ってしまった。苦労を知らない殿様同志だから、人の揚足をとったとなるともう放さぬ。それでは今晩一晩で庭を作って見せて下さい。ああ宜しいとも。キッとですね。ということになって、殿様は蒼白になって藩邸へ帰ってきた。すぐさま都甲太兵衛を召寄せて、今晩一晩でぜひとも庭を造ってくれ。宜しゅうございます。太兵衛はハッキリとうけあったものである。一晩数千の人夫が出入した。そして翌朝になると、一夜にして鬱蒼たる森が出来上っていたのであった。尤も、この森は三日ぐらいしか持たない森で、どの木にも根がついていなかったのだ。宮本武蔵の高弟はこういう才能をもっていた。
37、
志水新丞組
覚
高田傳右衛門儀作七日知行所下益城廻江手永阿高村江罷越候間序ニ柏原新左衛門立山へ躑躅見物いたし度
近邊在御家人等同道ニ而出浮候処過酒ニおよび帰路於隈庄町内之老女を手込ニいたし老女相果申候 其上
寺本八左衛門家来中尾乙平と申者参り懸候を追懸打果申候 然酔狂と相見江申候處今朝ニ至り酒氣大
半薄キ申候へども全無取締犯乱ニ而も可有御座哉ト相見へ奉恐入候 勿論手堅ク番等付置申候 此段可然
様奉頼候 以上
三月八日 中根十左衛門
三井新助
高田角左衛門(本家)
池部次郎助殿
安藤十郎右衛門殿
申渡
高田傳右衛門
傳右衛門儀當三月七日於隈庄町酒乱いたし脇差迄を帯し徘徊いたし於前々強儀之仕形ニおよび別而は無
罪之者両人殺害いたし其身は百姓屋敷ニ倒頃其節は脇差をも帯居不申重畳不埒至極之儀ニ付
被下置候御知行家屋敷被 召上旨被仰出也 以上
九月十三日
38、
志水孫七郎組
口上之覚
私召抱置申候家来難差通筋有之候ニ付手討仕候 此段御達仕候 尤始末之儀は追而御達可仕候 以上
十一月廿一日 相良又左衛門
奥田次郎左衛門殿
奥田十兵衛殿
覚
私當三月ゟ召抱置候増奉公人玉名郡中富手永廣村惣七と申者不届き之筋有之昨夜手討仕候段御達仕候通ニ
御座候 右は作廿一日朝飯後村井椿寿方江薬取ニ参候様申付候処聞捨いたし其侭山ニ参り其夕遅ク帰申候 右聞捨
いたし候儀は其侭ニ差置申候 したためいたし候上隠居縁家内ニ参居申候ニ付迎ニ参候様申付候処風呂ニ参り申度よし
申候間風呂迄ニ而早ク罷帰り迎ニ参り候様申付遣候ところ四ツ半比隠居はまかり帰り家来は九ツ比ニ帰り申候ニ付今朝
ゟ度々不届之次第叱申候ニ付相断申候へば其侭ニ而差免申筈ニ御座候処重畳及過言何分難差通不得止事
手討仕候始末之儀は右之通ニ御座候 尤死骸之儀村役人江□□之通受取方有之候様申遣シ置申候 以上
十一月廿一日 相良又左衛門
39、
朽木内匠組
志方半兵衛儀去年四月組之足軽橋本実右衛門を致手討候一件書付相達置候 実右衛門其節之振舞
其侭に難差置儀ニは候へども先致方も可有之處直ニ手討いたし且又実右衛門手討吟味筋専ラ相手之申分□
因而相決其身未タ屈服不致内罪名を以御給扶持差放彼是卒忽之次第ニ付當御役被差除其方組
被召可候条か被得其意候 以上
七月三日 奉行所
朽木内匠殿
「志方半兵衛言上之覚」で知られる志方半兵衛の一族は6家あり、この項の人物の特定に至っていない。
40、
西山大衛組
山崎角弥育之伯父山崎吉次郎儀知行所上益城沼山津手永馬水村百姓共江申談為滞留罷
越居申候 右吉次郎忰山崎勇次郎儀去ル廿五日同郡木山町江罷越及大酒右木山町下タ河原表江
罷越候処近郷在宅且熊本之面々乗馬ニ而罷越其所江休足ニ而も有之候哉馬を繋置候 右馬之内
栗野又兵衛嫡子栗野善兵衛馬ニ刀を抜キきたり少々手疵を負せ候ニ付馬■かつ別紙名前之面々
より取鎮メ栗野又兵衛宅江連越置右又兵衛私宅へ罷越知せ有之候間早速彼地江私共父子罷越右
之面々へ懸合候處右勇次郎酔躰ニ而前後不覚之躰有之候間彼宅ニ而厚世話有之候由御座候 右之
次第ニ付直ニ私宅江連越申候 然處勇次郎儀兼々癪氣も有之此節次第酔躰迄之事ニ而も無之共
ニ而は有之間敷や始末之儀承糺候とも今以本心々元付不申候ニ付弥以手堅仕置申候 此段御内意御達仕候
以上
正月廿八日 山崎角弥
當りなし
覚
八左衛門二男
冨島伸次 佐藤鼎助 福田善右衛門 寺本寿次郎
甚右衛門二男
的場参次 高橋角左衛門 福田熊吉 栗野善兵衛
正月廿一日
御内意之覚
一昨廿五日私嫡子栗野善兵衛儀乗馬ニ而出府仕帰り候節沼山津宮園於河原近在宅之面々打寄馬御座候ニ付
右■處江忰罷越しばらく之間馬を繋キ右面々と咄合仕居候處酔躰之者と相見忰馬江刀ニ而疵を負せ立
退キ候ニ付其分ニて難差置直ニ追付候て取しつめ可申と存居候處右面々一同ニ追懸町家ニ而取鎮メ手錠
を卸シ宮園村次助と申百姓宅江連越候段忰ゟ申越候ニ付私罷越打寄候面々且忰江も右之者姓名等承
り候哉之儀問合申候処山崎角弥育之浪人山崎吉次郎忰山崎勇次郎と申仁之由ニ而御座候 先私宅之様ニ
連越手堅仕置私儀直ニ出府仕角弥方江参り及面談候処自身私宅江罷越請取可申談噂有之候ニ付
而も相分不申間言語等不揃ニ而不本心之躰ニ相見勝次儀兼癪氣強ク有之候間全病乱仕右之次第ニ有
之候由依之一間を取囲入置申候段相連申候 右書付昨日政府江罷出當番御奉行江相達置申候 左様御聞置可
被成例之趣を以宜敷御頼申候 以上
七月廿日 大木弥助
朽木内匠殿