津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本城天守閣からの展望

2024-03-23 14:04:59 | 熊本

 数日前の熊本日々新聞に、熊本市役所の新庁舎建築について、跡地(現市役所)の高さ制限の緩和を求める声がその筋の業界から湧き出しているという。
熊本城周辺市域は「熊本城特別区域」とする高さ制限地域があり「海抜50mを超えないこと」という特別規定がある。
先の話では、熊本市役所の改築は現在地では行われないことが前提となる議論であり、今頃こういう報道があるということは、その線で事は動いているのだろう。
考えてみると、現在地での建て替えとなると、仮庁舎の借り受け又は建設が伴うから、別の場所で新庁舎を建て、現庁舎あとはその後解体するというのが経費もかからず良いことは理解できる。
もしくは早々に明け渡して、新たな商業施設を迎えるという一手かもしれない。
政令指定都市としては、本格的なホテルの建設などが望まれるが、TSMCの進出により沸騰している熊本としては、早い時期にその手当てをして計画に進みたいというのはその筋の方々の思惑だろう。
いくつかの候補地が示されているが、さてどこに決定するのか大変興味深い。

 熊本城特別区域とは、熊本城天守閣と同じ高さと聞くが、最上階からの眺望が遮られることがないようにとのことである。
かっては周辺地から遠望できた熊本城の雄姿は、よほど見つけて回らない限り見いだせない。
申請がなされれば、OK が出るのは間違いないだろう。熊本城からの展望も見納めが近いのではないだろうか。
老い先短い爺様としては、足腰がまだ丈夫な時に史料片手にじっくり熊本城散策をしたいと念じている。
桜の季節が近い。花見て一杯も又一興である。

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■慶長・寛永期の文化人

2024-03-23 08:40:52 | 人物

 これはもう、単なる隙つぶしに他ならない。必ずしも慶長・寛永期とは限らないが、禁裏や時の権力者と細川家との関係を略図にしてみた。
それでも一応資料を見ながらのことだから、例えば後陽成帝は三宮・後水尾帝には譲位したくなく、弟宮(八条宮)を望まれたとか、東福門
院の入内に当たっての徳川家のあまりにもひどい行動などを知ることになる。
細川家に関しても、幽齋の田邊城解放や八条宮の古今伝授など、後陽成天皇の強い意向があったこと、また光尚室の逝去後、八条宮家との結
婚話があったことなどを考えると、略系図の一本の線はいろいろの事柄や、当事者の心情などが絡み大変面白い。
綱利以降、徳川家周辺との婚姻が見られるが、三斎忠興の思いからは遠いものとなっていく。

東福門院と細川萬を朱書きにしたのは、その着物道楽によって京都の織物文化が昇華したという寛永文化の一面をあらわしたかったが故である。

          三宮           すがのみや・つぐひと
+ーーー後陽成天皇ーーーーーーー後水尾天皇ーーーーーーーーーーーーーーーー素鵞宮・紹仁
|              ‖           ⇩
|              ‖ーーーーー明生天皇===後光明天皇 
| 徳川家康ーーーーーーーーー秀忠   ‖
|          ‖ーーーーー和子(東福門院) 
| 織田信長ーーーお市ーーー

+ーーー八条宮智仁親王ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●
   古今伝授               ↓(結婚話が持ち上がったが立ち消えとなったー天草島原の乱・忠利の死)
+ーーー細川藤孝 ーーー+ーーー忠興ーーー+ーー忠利ーーー光尚
|       |        |               ‖
|       |        +ーーー  万      ‖
|       |            ‖ーーー弥々(男子出生するも死去・後男子も死去)
|       |      烏丸光廣ーーー光賢
|       |
|       +ーーー伊也
| 吉田神道      ‖ーーーー萩原兼従(豊国廟初代社務職)
| 吉田兼見ーーーーーーー兼治
| 兼見卿記著者   慶長18年(1613年)、後陽成上皇に神道を講ず。

+ーーー ●
   ‖
  土御門久脩
 

 

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